2009年5月10日日曜日

復刻:みどり 名所ある記 善照寺砦跡



 毎日新聞別刷り みどり 名所ある記 1978年1月15日号

 善照寺砦跡

 信長、夢幻の戦さ跡

 名鉄鳴海駅前の道を北へ、扇川を渡り、旧東海道を横切ってなだらかな坂道を登ると、根古屋城跡へ出る。その前を右へ折れる。まだまだ続くなだらかな登り道、一月とは思えない暖かい日差しの中を歩くとじっとり汗ばんできた。左側に今ではめずらしくなってしまった木造建ての校舎があった。鳴海小学校。校庭では子供たちが冬の日差しの中で元気になわとびやドッジボールにきょうじていた。
 学校からさらに少し歩くと、小高い丘があり、松や桜の木々が木枯らしをさえぎっている。この丘頂上一帯が整地され、子供たちのためにブランコや砂場が作られ、砦(とりで)公園と名付けられて人々に親しまれている。公園では付近の幼稚園児たちが無心に遊んでいた。

 “打倒・今川義元”の拠点に

 この砦は、織田方であったのに今川方となっでしまった根古屋城に対抗するため繊田信長が永禄二年(一五五九)三月に造ったもので、尾張志などによれば、東西二十四間(四十四メートル)、南北十六間(二十九メートル)の広さであったというが、今ではもちろんその広さもなく三木ほど残る老木がその名残をとどめているだけだ。砦跡に立って望見してみると、この一帯ではやはり一番の高台で見通しも良い。対する根古屋城方面は高層の建物が立ってしまい、いまでは想像するしかないが、この砦からは根古屋城がみおろせる位置にあったのではないだろうか。
 砦は永禄三年(一五六〇)五月桶狭間の戦いのときは佐久間左京亮が守備していた。
 織田信長はあの有名な『人間僅五十年比下天内受生無不滅…」幸若舞(こうわかまい)の「敦盛(あつもり)」の一節を三度舞い。美しい濃姫に見送られ、従者わずか八十騎あまりで清洲城を飛び出した。
 途中、熟田神宮に戦勝を祈願し志気を鼓舞、そして古鳴海、丹下を経て、諸砦の兵を合わしつつ善照寺砦に入った。清洲より追いついて来た手兵や諸砦の兵など三千人がこの砦で集結した。織田信長は根古屋城の敵をあざむくため、旗さし物を立てて並べさせ、織田軍がいかにもろう城し、砦を死守するかのように見せかけ、織田信長自ら手兵約二千をひきいて、ひそかに砦を出た。森や山陰をぬうように進むうち、おりしも大風雨。このときとぱかり今川義元の本陣へ突っ込み、敵のの虚をついて大勝利た得たという。みなさんご承知の「桶狭間の戦い」の一節。

 鳴海絞り元祖の碑も

 近くに鳴海絞りの元祖と言われる三浦玄忠の碑がある。

☆交通=名鉄鳴海より徒歩十分▽市バス=緑市民病院下車徒歩三分・鳴海小学校下車徒歩三分
(淡河=版画も)

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