2009年5月9日土曜日

復刻:みどり 名所ある記 大高城跡



毎日新聞別刷り みどり 名所ある記 1977年11月15日号

名所ある記

大高城跡

☆緑区大高町字城山の静かな小高い丘。色づく木々の中からモズの鳴声がひときわかん高く聞こえる。そんな中に大高城跡があった。本丸跡への登り口は小公園、ブランコやすべり台などの遊具が並び、子供たちの夢づくりの場となっている。

 戦国有情 夢秘して

 大高城由来の高札を横に、なだらかな道を三十メートルほど登ると、目の前が開け芝生の広場が現れる。この広場を少し登ったところが本丸跡。いまにも倒れそうな鳥居の横に淡いピンクのコスモスが咲いていた。奥に鶴岡八幡宮が祭られ八幡宮の前には寛文十年(一六七〇)志水甲斐守が奇進したという石とうろうの台石が二つ。近くのクマザサの中に二メートルほどの大高城跡の石碑が立つている。この城は「古城巡覧」によると東西五十九間(一〇七メートル)、南北十八間(三三メートル)、四方堀二重なり、とあるが、現在は堀の姿さえない。構築の年代もはっきりしないという。

 若き家康「兵糧入れ」に成功

 城が尾張と三河を結ぶ交通の要所にあったため、天文・弘治のころ(一五三二~一五五七)から織田、今川の争いの場となり、城は織田方そして今川方とゆれ動いた。永禄二年(一五五九)桶狭間の戦いの前の年、鳴海城主山口左馬介の謀反で今川方となったこの城を織田信長は、城の東北八百メートルの高台に鷲津、またその東南の高台に丸根と二つの砦(とりで)を築くことにより兵糧の道を絶った。今川義元はこれを救うため、松平元康(徳川家康)に命じ兵糧を城中へ送らせた。非常に危険な任務であったが、元康は数百人を指揮し米四百俵あまりを人馬共に堂々と城中に運び入れた。これが有名な大高兵糧入れである。
 このころから将来、徳川幕府を起こす家康の戦いのうまさ、運の強さをみせているように思われる。桶狭間の戦いには元康が守っていたが、義元の戦死をきき三河に引きあげたため、戦略上の価値がなくなり廃城となった。元和二年(一六一六)尾張藩家老志水甲斐守が一万石を領し、城跡に住み、そののち明治初年まで子孫が継承して所領していた。
 昭和十三年十二月、国の文化財に指定。
 交通=国鉄大高駅から徒歩約十五分
(淡河)

 “六高城”の本丸跡に立つ鶴岡八幡宮と島居