2009年5月17日日曜日

復刻:みどり 名所ある記 鷲津、丸根砦跡


 毎日新聞別刷り みどり 名所ある記 1978年3月15日号

 鷲津、丸根砦跡 

 陽光うららか。花だよりももうすぐだ。冬の間、家に閉じこもりがちだった体をほぐそうとぶらりハイキングコースを歩いてみた。
 市バスを大高駅前で降り、南へ二十メートルほど歩き左へ。だらだら坂が丘の上へと続く。名古屋市の立てた「鷲津砦跡」の高札。その高札の前の急な坂をあえきながら登った。
 一説による鷲津砦(とりで)本丸跡へいってみた。この丘一番の高台、それとおぼしき場所には年老いた松が何本も寄り合い、本丸跡はここだと主張するように立っていた。

 往事はるか、落城の碑 ただ望見 新幹線、工場群

 丘からながめると、砦が築かれた永禄二年(一五五九)のころは海であった南西方面には工場がぎっしりと並び、臨海工業地帯を形成していた。砦跡の空は青く広がっていたが、工業地帯は春かすみにしてはどんよりとしていた。
 高札の場所まで戻る。碑への道を探したが見つからない。木々の間を潜りながら道なき道を登りおりする。パッと目の前が明るくなり小さな原っぱへ出た。やわらかな日差しの中に表忠碑が浮かひ立っている。その後ろに隠れるように鷲津砦跡の碑があった。
 この砦は織田信長が今川方の大高城に対抗するため丸根砦とともに築いたもので、標高三十五メートルの丘に東西四十メートル、南北六十九メートルの広さであったというが正確なことはわからない。
 永禄三年(一五六〇)の桶狭間の戦いの時は、飯尾定宗が四百の将兵を指揮し朝比奈泰能ひきいる今川軍二千を迎え戦った。堅周な城壁があるわけでもない砦では、圧倒的な人教を誇る今川軍を繋退することは到底むずかしく砦に火をつけての猛攻に、飯尾定宗以下多数の将兵か討ち死にし陥落した。
 この砦跡碑を起点として、丸根砦などをへて長福寺までの全長五キロメートルが緑区民ハイキンクコースに指定されている。
 丘を少しおりる。途中から道が二つに分かれる。左へとり長寿寺の境内を通るのが本来のコースだが、現在、寺は工事中で通れないので石へ進む。石畳の階段をおりると鷲津公園へ出た。公園は新しく造られたばかりで設備も美しい。
 現在は砦跡へはバス停から高札の立っている場所へ曲がらず、そのまま三十メートルほど南へ歩き、公園から登ったほうがわかりやすい。
  ◇
 丸根砦へは公園前の道を南へ、長寿寺前を通り過ごし、すぐの道を左へ折れる。少し歩くと案内板が目に入る。途中には大きな桜やツバキの木があり花の咲く季節には人々を楽しませることだろう。
 どこからともなく色々な鳥の鳴き声にまじってウグイスの声が聞こえ、ぶらり歩きも楽しくなる。
 十二分ほど歩くともうそこが丸根砦跡の丘。頂上近くに史跡丸根砦跡と彫られた石碑と戦死者慰霊の塔があった。この丘も開発の波には勝てないのか満身傷だらけ。その傷跡に宅地が造成されていた。
 砦は東西三十六メートル、南北二十八メートルで外側には堀があったというが、丘の周りに一部堀跡らしいものが残るだけである。
 桶狭間の戦いの時は佐久間盛重が七百の将兵で松平元康(徳川家康)の二千五百を迎撃した。鷲津砦とは反対に将兵が一丸となって砦から討って出て戦い、今川方の将松平正親など多数を倒したが、次々と現れる新しい敵に耐え切れず盛重以下全員が討ち死にした。
 丘からは大高城跡がすぐ近<。目の前を新幹線か通過した。そのごう音は押し寄せる将兵のときの声に聞こえ、一瞬タイムマシンで戦国時代にまい込み、戦場にいるような気持ちになった。
☆交通=市バス・名鉄バスとも大高駅前下車▽国鉄大高下車
(淡河=写真も)

 鷲津砦跡にひっそりと立つ石碑

2009年5月13日水曜日

復刻:みどり 名所ある記 鳴海城跡


 毎日新聞別刷り みどり 名所ある記 1978年2月15日号

 鳴海城跡

 如月(きさらぎ)。立春も過ぎ、ふきのとうも芽を出し始めた。春をはだで感じる日の昼さがり、鳴海の古城跡をたずねてみた。

 名鉄鳴海駅前、両側に商店が並ぶにきやかな通りを、旧東海道を横切り北へ歩く。旧道ぞいの花屋の店先に、スイセンやサクラソウなど美しい花が咲きこぼれ、ひなびたたたずまいに調和していた。

 道が大きく左ヘカーブする地点が鳴海町字城。地名の示すように鳴海城(根古屋城)跡である。正面が切り立った城跡は見上げた丘の頂きに赤い鳥居がのぞいていた。
 急な石段を上る。途中「根古屋城跡、東西約一三七米、南北約六二米、応永年間(一三九四~一四二七)安原宗範の居城のち廃城、その後永禄年中、今川の猛将、岡部五郎兵衛元信この城を守り、桶狭間の戦にはよく戦った。その後信長の臣佐久間信盛、城主となり天正の末廃城となる。昭和五十二年三月名古屋市教育委員会」の高札。
 三十一段の石段を上り切ると約二〇メートル四方ほどの平地があり、天満社が祭られている。

 栄枯見守った老木二本 佐久間信盛を最後に廃城

 城跡に老木二本。人の世の栄枯盛衰をじっと見守りながら風雪に耐え、生きながらえてきた。ふた抱えほどもあるムクとエノキのこの老木(名古屋市保存木に指定)は早春の風にさからいながら何か言いたげである。近くに鳴海城趾之碑と彫られた二メートルほどのいしぶみ。ここから見下ろせる西側道路を隔てた丘、現在、緑保健所が建っている周りも城跡である。保健所横は城跡公園となり子供たちが元気に遊んでいた。
 あたりは木々が多く、小烏のさえずりもさわやかである。日だまりで友幸ちゃん(二つ)を遊ばせていた鳴海町花井、野田勝美さん(三〇)は「今は寒いのであまり来ませんが、瞬かくなるとよく来ます。安心して子供を遊はせられますし、木が多く静かで、何か心が休まるような気がします」と話していた。

 この城跡の地の歴史は古く原始時代にさかのぼる。有史以前この地まで海が陸に入り組み、風光明美、漁業、農業または狩りをしながら人々が住んでいたといわれ、弥生後期の土器類、奈良・平安時代(七一五~一一九八)のかわらなどが数多く発掘されている。室町時代に入り応永元年(一三九四)に安原備中守宗範が城を築いて住んだが、応永二十五年(一四一九)宗範の没により廃城となった。時代は移り、戦国時代、この地が尾張と三河を結ぶ要所にあったため、信長の父信秀が古城を修理させ、山口左馬介義継に今川義元にそなえ守備させた。古地図によれは城郭は東西二つに分かれており、真ん中に堀があった。この堀跡が現在道路となっている。

 信秀の没したあと、左馬介は謀反を起こし、義元についたが、義元は左馬介を切腹させた。義元はその後へ岡部五郎兵衛元信を置いてこの城を守らせた。これに対し信長は丹下、善照寺、中島等の砦(とりで)を築いて対抗した。永禄三年(一五六〇)五月、義元は二万五千の大軍を率いて上洛への軍を発したが、桶狭間において信長に討たれたため今川方の城や砦はつきつぎと落ちた。しかし元信は屈せずよく戦った。信長は義元の首を丁重に僧を使って元信に返したため、元信は駿府へ帰った。
 のち信長の臣・佐久間信盛が城主となっていたが、天正三年(一五七五)信盛が刈谷城に移ったことにより廃械となった。

☆交通=名鉄鳴海駅前より徒歩三分 (文と版画・写真=淡河)

 鳴海城跡の石段~ひなびたたたずまいは市民のやすらぎに

2009年5月10日日曜日

復刻:みどり 名所ある記 善照寺砦跡



 毎日新聞別刷り みどり 名所ある記 1978年1月15日号

 善照寺砦跡

 信長、夢幻の戦さ跡

 名鉄鳴海駅前の道を北へ、扇川を渡り、旧東海道を横切ってなだらかな坂道を登ると、根古屋城跡へ出る。その前を右へ折れる。まだまだ続くなだらかな登り道、一月とは思えない暖かい日差しの中を歩くとじっとり汗ばんできた。左側に今ではめずらしくなってしまった木造建ての校舎があった。鳴海小学校。校庭では子供たちが冬の日差しの中で元気になわとびやドッジボールにきょうじていた。
 学校からさらに少し歩くと、小高い丘があり、松や桜の木々が木枯らしをさえぎっている。この丘頂上一帯が整地され、子供たちのためにブランコや砂場が作られ、砦(とりで)公園と名付けられて人々に親しまれている。公園では付近の幼稚園児たちが無心に遊んでいた。

 “打倒・今川義元”の拠点に

 この砦は、織田方であったのに今川方となっでしまった根古屋城に対抗するため繊田信長が永禄二年(一五五九)三月に造ったもので、尾張志などによれば、東西二十四間(四十四メートル)、南北十六間(二十九メートル)の広さであったというが、今ではもちろんその広さもなく三木ほど残る老木がその名残をとどめているだけだ。砦跡に立って望見してみると、この一帯ではやはり一番の高台で見通しも良い。対する根古屋城方面は高層の建物が立ってしまい、いまでは想像するしかないが、この砦からは根古屋城がみおろせる位置にあったのではないだろうか。
 砦は永禄三年(一五六〇)五月桶狭間の戦いのときは佐久間左京亮が守備していた。
 織田信長はあの有名な『人間僅五十年比下天内受生無不滅…」幸若舞(こうわかまい)の「敦盛(あつもり)」の一節を三度舞い。美しい濃姫に見送られ、従者わずか八十騎あまりで清洲城を飛び出した。
 途中、熟田神宮に戦勝を祈願し志気を鼓舞、そして古鳴海、丹下を経て、諸砦の兵を合わしつつ善照寺砦に入った。清洲より追いついて来た手兵や諸砦の兵など三千人がこの砦で集結した。織田信長は根古屋城の敵をあざむくため、旗さし物を立てて並べさせ、織田軍がいかにもろう城し、砦を死守するかのように見せかけ、織田信長自ら手兵約二千をひきいて、ひそかに砦を出た。森や山陰をぬうように進むうち、おりしも大風雨。このときとぱかり今川義元の本陣へ突っ込み、敵のの虚をついて大勝利た得たという。みなさんご承知の「桶狭間の戦い」の一節。

 鳴海絞り元祖の碑も

 近くに鳴海絞りの元祖と言われる三浦玄忠の碑がある。

☆交通=名鉄鳴海より徒歩十分▽市バス=緑市民病院下車徒歩三分・鳴海小学校下車徒歩三分
(淡河=版画も)

復刻:みどり 名所ある記 瑞泉寺


毎日新聞別刷り みどり 名所ある記 1977年12月15日号

名所ある記

瑞泉寺

☆名鉄鳴海駅前から旧東海道を東へ。新しい家々が多くなり、車がいそがしけに走りまわってはいるが、まだずしりと重みを感じさせる古い門構えの家もちらほら。
 黒べいごしに老松が木枯らしにふるえ街道の名残をわずかにとどめている。約八分歩くと扇川(中島橋)と交差する。その手前方側に龍蟠山瑞泉寺があった。

☆鳴海町相原町四。入口には名古屋市が立てた古ぼけた高札と緑区観光協会連合会の案内板がある。

☆白壁に囲まれた石段を「一つ二つ」と数えながら登る。二十段の石段を登りつめると、朱を塗った立派な山門が立ち、正面には「曇華峰」(どんげほう=山号の別称)と雄大な字体の扁額が掲げられていた。この山門は京都府宇治市黄檗(おうばく)宗万福寺の総門を模したといわれる黄檗式重層の建造物である。(昭和三十二年一月十二日、愛知県文化財に指定)

 漂う静寂・枯淡の趣

☆横に石とうろう一基と葉を落としたザクロの木が一本、静寂・枯淡の趣があった。山門をくぐり境内に入ると、山門の朱色のはなやかさとはうって変わった荘厳さ。

☆五一一七平方メートルの境内には本堂、開山堂、書院、庫裏などが整然と並び、ほうき目の跡もあざやかな庭に、真っ白な山茶花が今を盛りと咲きほこっていた。二羽の鳩がのんびりとエサをついばんでいる。この寺は曹洞宗大本山総持寺の直末で釈迦牟尼如来を本尊としている。応永三年(一三九六)今から五八一年前、根古屋城(鳴海城)城主安備中守宗範が建立したもので、大徹宗令の開山である。寺は初め平部諏訪山にあったが焼失したため文亀元年(一五〇一)現在の場所に移った。

 山門の守護は竜王の娘

☆三世劫外は徳望が高く、多くの人々を教化した。この地にすむ竜王の娘(蛇身)が女人の姿をして、かかさず熱心に法話を聞く座に連なっているのに気づいた劫外は不憫に思い戒法を授けた。竜の娘は蛇身を脱して成仏しそのお礼に「諸人に利益を与えんと山門の守護神となった」という。これによりこの寺を龍蟠山と号している。

☆寺には守悦上人の無縫塔や明倫同篤学石川香山の墓などがある。あわただしい年の瀬のひとときをこの境内で過ごすのもまた楽しからずや…そんな思いで寺を後にした。

※交通=名鉄鳴海駅から徒渉約八分、市バス六条停から徒渉五分。
※年中行事=秋葉祭十二月十六日▽御開山忌法要一月二十五日▽龍神祭八月二十二日など。
(淡河)

 朱更りの瑞泉寺の山門

2009年5月9日土曜日

復刻:みどり 名所ある記 大高城跡



毎日新聞別刷り みどり 名所ある記 1977年11月15日号

名所ある記

大高城跡

☆緑区大高町字城山の静かな小高い丘。色づく木々の中からモズの鳴声がひときわかん高く聞こえる。そんな中に大高城跡があった。本丸跡への登り口は小公園、ブランコやすべり台などの遊具が並び、子供たちの夢づくりの場となっている。

 戦国有情 夢秘して

 大高城由来の高札を横に、なだらかな道を三十メートルほど登ると、目の前が開け芝生の広場が現れる。この広場を少し登ったところが本丸跡。いまにも倒れそうな鳥居の横に淡いピンクのコスモスが咲いていた。奥に鶴岡八幡宮が祭られ八幡宮の前には寛文十年(一六七〇)志水甲斐守が奇進したという石とうろうの台石が二つ。近くのクマザサの中に二メートルほどの大高城跡の石碑が立つている。この城は「古城巡覧」によると東西五十九間(一〇七メートル)、南北十八間(三三メートル)、四方堀二重なり、とあるが、現在は堀の姿さえない。構築の年代もはっきりしないという。

 若き家康「兵糧入れ」に成功

 城が尾張と三河を結ぶ交通の要所にあったため、天文・弘治のころ(一五三二~一五五七)から織田、今川の争いの場となり、城は織田方そして今川方とゆれ動いた。永禄二年(一五五九)桶狭間の戦いの前の年、鳴海城主山口左馬介の謀反で今川方となったこの城を織田信長は、城の東北八百メートルの高台に鷲津、またその東南の高台に丸根と二つの砦(とりで)を築くことにより兵糧の道を絶った。今川義元はこれを救うため、松平元康(徳川家康)に命じ兵糧を城中へ送らせた。非常に危険な任務であったが、元康は数百人を指揮し米四百俵あまりを人馬共に堂々と城中に運び入れた。これが有名な大高兵糧入れである。
 このころから将来、徳川幕府を起こす家康の戦いのうまさ、運の強さをみせているように思われる。桶狭間の戦いには元康が守っていたが、義元の戦死をきき三河に引きあげたため、戦略上の価値がなくなり廃城となった。元和二年(一六一六)尾張藩家老志水甲斐守が一万石を領し、城跡に住み、そののち明治初年まで子孫が継承して所領していた。
 昭和十三年十二月、国の文化財に指定。
 交通=国鉄大高駅から徒歩約十五分
(淡河)

 “六高城”の本丸跡に立つ鶴岡八幡宮と島居

2009年5月5日火曜日

展示品:100 鳴海名所八景和歌

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

展示品:99 なるみ荘分譲地区割図・なるみ荘第二分譲地区割図

 1928(昭和3)年、なるみ荘の宅地分譲開始。

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

展示品:98 鳴海球場入場券


 第23回全国中等野球大会(現在の全国高校野球選手権大会)東海予選大会が昭和12年(1937年)7月21日から8月4日まで鳴海球場で開催された。その招待券。

 鳴海球場は1927(昭和2)年、総工費36万余円・面積1万2千坪で完成し、昭和11年2月9日には日本で初めて「巨人軍」と「金鯱軍」のプロ野球の試合が行われた球場。
 昭和33年10月に閉鎖され、現在は名鉄自動車学校となっている。

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

展示品:97 古今西方往生記(鳴海山中泉谷教主) 

 天保4年(1833)京都光明寺で僧侶となった亮光が、鳴海山中泉谷に阿弥陀堂を建立し、古今50人の往生の様子を集めた和綴本

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

展示品:96 愛知郡史談

 制作年月不明。和綴本(成海神社など掲載)。

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

展示品:95 幼学綱要児童用教科書(1・2・3冊)


 和綴 1879(明治12)年 孝行・忠節など子供たちへの教えを書いた書物。

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

展示品:94 鳴海絞(反物・洋服・手ぬぐい・朱印帳・お守り)


 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

展示品:93 天保十二年鳴海村絵図

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

展示品:92 尾張国全図 

 1864(元治元)年

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

展示品:91 山海道中記

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

展示品:90 船徳利 

 揺れる船の中で倒れないように底が平たくなっている。鳴海から伊勢・知多へ船が出ていた。また、江戸へ向けて酒も運ばれていた。

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

展示品:89 武家提灯

 家文の付いた螺鈿の棒に取り付ける箱提灯でたたむと下蓋が上蓋の中に納まる、上蓋には蝋燭を出し入れする窓がある。婚礼などに用いられた

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション
荒木集成館

展示品:88 薬箱・薬

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

展示品:87 槍・家門入り(拵え)

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

展示品:86 薙刀・家門入り(拵え)

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

展示品:85 弁当箱

 檜や杉などを使って薄く板状に剥ぎ、火にあぶったり熱湯や蒸気でふかし、丸く曲げて作られることで曲げ物と呼ばれる。板を楕円形に保つため、桜や樺などの樹皮を利用して合わせ目を縫っている。

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

展示品:84 弁当箱

 持ち運びができる重箱になった朱塗りの弁当箱。5段になっており、手に提げて花見や屋外での芝居見物などに持参して楽しんだ。

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

展示品:83 陣笠

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション
荒木集成館

展示品:82 鳴海代官所建物柱

 大高に移築されていたが、道路拡張工事で消滅。柱の一部分を裁断して残す。

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

展示品:81 足軽甲冑(備具足)小形甕



 防御のため足軽などが身に付けていた。

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

展示品:80 名古屋汎太平洋博覧会


 会場見取図・絵葉書・冊子・市電の切符に記念スタンプ。

 昭和12年3月15日から5月31日の78日間、名古屋市南区臨港地帯(現・港区港明)
において名古屋市が主催、愛知県・名古屋商工会議所が協賛した博覧会。「関係国間の文化並びに産業の発達、平和の増進」を目的として開催され、鳴海からも絞りを出品した記録が残っている。

 名古屋汎太平洋博覧会については金城学院大学情報文化学科中田ゼミによる Webアーカイブ が詳しい。

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

展示品:79 武士訓(1・2・3・4冊)

 和綴 1865(正徳5)年 武士の心得を書いた書物

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

展示品:78 鑑 

 携帯用と家庭用に丸鑑と柄鑑があり、18世紀には一般にも鑑や鏡台が普及を始めた。いずれも銅と錫の合金で、写す面には錫アマルガムを蒸着して磨き上げる。ガラス鑑の60%ほどの反射率で暗い。背面には松竹梅や鶴亀など長寿繁栄の意匠が施されている。

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

展示品:77 鳴海伏見屋での自殺書置き

 1857(安政4)年12月5日、鳴海宿伏見屋で起きた、本地村「源兵衛」20歳と、沢潟屋の飯盛女「ゑい」21歳の心中事件の遺書の写し。源兵衛の分もゑいが書き残している。

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

展示品:76 藩札 


 諸藩が財政救済のため発行した紙幣。領国内の流通と幕府貨幣との兌換を原則とし、金札・銀札・銭札のほか米札などもあった。1661(寛文元)年の福井藩の発行を最初に、明治までに125藩が約1700種類の藩札を発行している。1879(明治12)年に全ての藩札を新貨に交換する作業が終了した。
紙幣
「名古屋商方会所銀札」
表 一 米味噌酒
塩油薪    代銀壹匁分 印
   右御預り置申候
     午三月
 裏             名古屋
                   米穀屋 印
   此配符御当地限他御支配地江  焚味噌屋 印
   御進物之義ハ御断申候 引換   酒造屋 印
   之義者商方会所二而取扱申候   塩 屋 印
                   油 屋 印
                   薪 屋 印              
「銀札」は現代の商品券と同じようなもので、これ一枚で米・味噌・酒・塩・油・薪のいずれかを、銀一匁分(銭六十から七十文、今の二千円ほど)購入することができた。ただし名古屋以外では通用しないので、他の地方の進物には使えない旨などが裏書されている。
同じ銀札が名古屋市博物館常設展に展示されている。

紙幣に関する最古の文献は1334(建武元)年に発行された記録が『建武記』に「紙幣をつくり内裏造営に資す」とある。続いて伊勢の度会府で足利末期に羽書と呼ばれる私札を発行したとされるが、実物は見つかっていない。羽書は端書のことで紙幣が小額なことから付いたとされる
徳川幕府は硬貨で通したが、各藩は財政難から幕府の許可を得て藩札を発行した。最初に藩札を発行したのは越前福井藩だが、明治までに125の藩が発行している。また幕府の許可を得ずに、特産物の商品券の形で「紙札・塩札・酒札」などを発行した。

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

展示品:75 濃尾大地震記録図(測候所記録)


 明治24年10月28日マグニチュード6で、尾張・鳴海に家屋全壊の被害発生し、鳴海尋常小学校も校舎崩れ元役場跡に移り如意寺にも分教場を開校。1 激震地方図(色の濃淡で地震の強弱を区別する)2 明治廿四年十月廿八日午前六時名古屋測候所記録 3 明治廿四年十月廿八日午前六時三十七分十一秒岐阜測候所記録。

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

展示品:74 貧乏徳利

 酒の量り売りは江戸中期から広まり、問屋から酒屋に運ばれた酒を徳利を持って各人が買いにいくようになった。最初は徳利も大形(5合)だったが、のちに貧乏徳利(2合半)が主流となった。町の名前が「ナルミ相原町」「大高」「有松」などと書かれている。

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

展示品:73 火熨斗(ひのし)

 衣類など布製品のしわを伸ばす道具。アイロンが日本に入ってくる前から使われていた。丸い金属の部分に炭火を入れ、その熱でしわを伸ばす。昔は、火鉢に絶えず炭火があり、炭火を必要とする道具はいつでも利用できた。

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

展示品:72 行灯


 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

展示品:71 なるみ焼大茶碗・茶碗

 幕末から明治にかけて鳴海に複数の窯が築かれ、さまざまな「なるみ焼」が作られた。鳴海の金剛寺には、鳴海焼の十六羅漢・雲上観音などがある。

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

展示品:70 提携施設のガイドブック(旅行用)

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展示品:69 東海道木曽路年玉道中記大成

 定飛脚問屋嶋屋佐右衛門 不許賣買

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展示品:68 印籠

 携帯用の薬入れで、安土桃山時代からあった。江戸時代には主として武士の装身具となる。もとは、印判・印肉を入れたのでこの名がある。材質は象牙・金属・木などさまざまで、彫刻や堆朱(ついしゅ)・蒔絵で飾る。付属品に根付と緒締めがある。

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展示品:67 方位磁石

 江戸末期に作られた携帯用。

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展示品:66 一円銀貨

 明治時代の貨幣 日本の竜1円銀貨・1886(明治19)年 アメリカの1ドル銀貨・1884(明治17)年。

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展示品:65 太平武将年代重宝記


 文化四年制作 江戸から京までの案内図に神武天皇から千三百七年間の年号 源頼朝から家斉までの武家略年表が付いている。

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展示品:64 携帯用蝋燭立

 懐中燭台。3本の真鍮の脚板と支柱からなり、それぞれ折りたためる。幕末の頃、田中久重が考案したといわれる。

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展示品:63 銭

 二分金・二朱金・両面大黒豆板銀・天保通宝・永楽通宝・寛永通宝

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展示品:62 早道

 小銭を入れるなど小物を入れで、下の鞄に寛永通宝などバラ銭。上の筒に一分金・二朱金・豆板銀などを入れた。中央の切れ目に帯を通すことで、落とす心配はなかった。

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展示品:61 煙管・煙草入

 煙草は鉄砲といっしょにもたらされたとされてる。

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展示品:60 火打石・火打金

 火を点けるには火打石と火打金を打ち付け、その火花を火口に飛ばし、炎が上がったら、硫黄を塗りつけた付木に移し、灯火などとして利用した。火打袋に入れて旅などでも持ち運んだ。火打石にはチャートが使われる。

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展示品:59 おみくじ 真鍮製

 江戸時代とされるが、どんなときどこで使われたかはよく分からない。

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展示品:58 折りたたみ式旅枕



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展示品:57 矢立

 携帯用筆記用具。中世の武将が戦陣に矢を入れて背負う箙(えびら)の中に筆と硯を入れて携行したことで付いた名称。墨と筆のほか紙を切るナイフの付いたものもある。

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展示品:56 東海道五十三次滑稽道中壽語録


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展示品:55 蝋燭立て(銅製)

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展示品:54 菓子木型

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展示品:53 小田原提灯

 上部と底が銅製で、閉じると円盤状になり携帯しやすくなっている。小田原の甚左衛門が考案し、享保の頃広まったと伝えられる。

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展示品:52 火薬入れ


 火縄銃に装てんする火薬をいれ、腰にぶら下げる。

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展示品:51 葵紋入萩山焼茶碗

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展示品:50 辞書



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荒木集成館

展示品:49 第一回国勢調査


 初めて国勢調査が実施されたのは大正9(1920)年で、その際に使用された筆・水滴・墨・硯のセット。箱内側に善政の基礎・正直に申告スルノデスなどのほか、氏名・男女ノ別など調査項目の記載がある。第一回国勢調査記念切手も発売された。第二回国勢調査は昭和5(1930)年となるが、記念絵葉書・記念切手が販売された。

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展示品:48 高札


 1868(慶応4)年 太政官布告。                  
 定
一 人たるもの五倫之道を正しくすへき事
一 鰥寡(かんか)孤独廃疾のものを憫(あわれ)むへき事
一 人を殺し家を焼き財を盗む等之悪業あるましく事
慶応四年三月 太政官
右之通被
仰出之訖 弥堅可相守者也
愛知縣
鳴海の高札は市博物館に収蔵されている。立札とも呼び、法度・掟書・犯罪人などの罪状などを記し、交通の多い市場・辻などに掲げた板札。目的は庶民に法令を徹底させることにあった。

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展示品:47 土人形

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展示品:46 銭箱(鍵付)


 慶応4年と筆書きされている。

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展示品:45 脇指(拵え)

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展示品:44 行器(ほかい)

 外居とも書く搬出用の食物収納具。外出するとき弁当などを入れて竿で担ぐ。

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展示品:43 日本刀(拵え)

 縁頭・目貫・鍔(特別貴重小道具)

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展示品:42 木桶

 食料用で天保元(1830)年と墨書き。クレと呼ぶ板を円筒状に並べ、竹製のタガで締めたもので、大型で丈夫な容器を作ることができた。日本では醸造業の発達にあわせ、桶つくりが盛んになった。

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展示品:41 須恵器・杯・蓋

 戦国時代

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展示品:40 山茶碗・甕の破片


 鳴海「徳重・亀が洞・鶴が沢」付近一帯には窯跡が多くあり、開発される前の山中では、いくつも山茶碗や甕の破片などが放置されていた。

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展示品:39 土垂

 焼き物でできたおもり。主に魚を獲る網に利用された。

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展示品:38 弥生土器・台付甕・高杯・小形甕

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展示品:37 忠臣蔵鳴海絞着物姿役者 国周

 画・国周 版元・ 制作・ 竪中判

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展示品:36 新撰太閤記 豊宣


 画・豊宣 版元・不明 制作・1883(明治16)年 二枚組 彫弥太 桶狭間合戦で前田犬千代の勇戦を織田信長に報告する豊臣秀吉(木下藤吉郎)を描いている。

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展示品:35 桶狭間前田犬千代軍功 延一


 画・延一 印刷兼発行者・横山良八 制作・1892(明治25)年 三枚組前田犬千代の奮戦を描く。
江戸時代

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展示品:34 桶狭間大合戦之図 芳虎

 画・芳虎 版元・宅間敬五郎 村瀬彦八郎 制作・年月不明 三枚組 彫栄 芳虎・通称は辰五郎で生没年不詳 国芳門人(のち破門) 号は一猛斎・錦朝楼 猛斎 今川義元を稲川治部太夫源義元としている。

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展示品:33 尾州桶狭間合戦 豊宣


 画・一陽斎豊宣 出版・小林鉄次郎 制作・1882(明治15)年 三枚組 歌川金太郎(一陽斎豊宣) 彫工・宗岡

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展示品:32 桶峡合戦之図 周延

 画・揚洲周延 印刷兼発行者・新栄堂古橋新之助 制作・1955(明治30)年 三枚組

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展示品:31 東京日々新聞(毎日新聞の前身) 第1号 木版摺り

 1872(明治5)年2月21日 彫・村橋昌蔵と弟子 32×46㌢ 1部140文 発行部数1000部 題字は謙堂で横に飛雲模様を描いたのは落合芳幾と思われる。
トップ記事は長野県で起きた貞婦「せん」と悪僧「慶山」の事件。次は岩倉具視らの欧米使節団に随行した福地桜痴の手紙を掲載した。米国ソルトレークシティー(ユタ州)のモルモン教徒の一夫多妻を認める共同体に関するもので、末尾に豪雪で摂氏4度の寒さを伝えている。続いて軽い町ダネで、神田の酒店が開店祝に無料で酒を出したら、街に酔っ払いが溢れた。論評で「仁が過ぎれば却て禍があるとはこのことだ」と加えている。最後は日枝神社の舟渡し行事が載っている。                  
現存する日刊紙としては最も古い。2号からは活版印刷となる。岸田吟香、福地源一郎(桜痴)が「雑報・論説」で評価を高めた。経営難から明治44年大阪毎日新聞に経営が移った。勢力を盛り返したのは関東大震災以降で第二次大戦まで東京朝日新聞と並び日本の新聞界を二分した。

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展示品:30 錦絵新聞・東京日々新聞 芳幾


 画・一恵斎芳幾(よしいく) 版元・具足屋嘉兵衛(具足屋)制作・1874(明治7)年 竪大判 渡辺彫栄 落合芳幾(一恵斎芳幾)は本名幾次郎 1833(天保4)年-1904(明治7)年 歌川国芳の門下で月岡芳年と兄弟弟子として浮世絵師また新聞人として活躍した。
東京初の日刊紙『東京日日新聞』が部数を伸ばすことに目をつけた絵草紙問屋「具足屋」が、東京日々在籍の落合芳幾と戯作者・山々亭有人と版元の協力で、新聞記事から一般に受けそうな「美談・情痴・殺人」など題材を選び、錦絵に記事をつけ情報提供の機能と娯楽性を持ったユニークなメディアとして発売した。芳幾は写実的技法が素晴らしく、生々しい題材にも浮世絵以上のリアリティー溢れる描写で、刺激を求める人々の評判となった。予想を超えた部数が売れたことで、同じような錦絵新聞が全国で発行されることになった。
第1号は東京日日新聞の第1号トップ記事と同じで、長野県で起きた貞婦「せん」と悪僧「慶山」の事件を題材にしている。

長野事件のあらまし
 信州今井村に宇兵ヱという貧しい農夫がいた。働き者だったが病を得て3年も床に就いたままだった。妻のお仙は貞淑で美しく、懸命に夫の看病をしていた。ある時、慶山という東京の僧がこの地にきたのを知って、お仙は夫の治癒を祈ってほしいと頼み家に呼んだ。ところが慶山は、お仙の姿色に迷って迫るのである。これに従わないお仙に慶山は欲望を抑えきれず翌夕、白刃をもって迫り、頑として従わず逆に諌めたお仙を殺害してしまう。

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展示品:29 東海道名所之内・桶狭間(行列東海道) 艶長

 画・一橋斎艶長 版元・海老屋林之助 制作・1863(文久3)年 竪大判 163枚(図)を歌川派の絵師16人で、将軍家茂が上洛する行列を描いている。

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展示品:28 桶狭間合戦稲川義元朝臣陳歿之図 芳年


 画・一魁斎芳年 版元・不明 制作・年月不明 三枚組 彫工・小泉兼 今川義元を稲川義元としている 経歴等は「桶狭間大合戦之図」を参照。

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展示品:27 燿武八景鳴海夜雨 国芳


 画・ 国芳・ 版元・ 制作・ 竪大判

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展示品:26 桶狭間大合戦之図 芳年

 画・一魁斎芳年(よしとし) 版元・不明 制作・1864(元治元)年 三枚組 月丘芳年(一魁斎芳年)1839(天保10)年-92(明治25)年 新橋丸屋町生まれ 通称米次郎 国芳門人で号は一魁斎のほか魁斎・大蘇などで、新聞錦絵なども描いている。

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展示品:25 五十三次名所図会 広重

 画・歌川広重 版元・蔦屋吉蔵 制作・1855(安政2年)年 竪大判 五十三次名所図絵(竪絵東海道)と呼ばれ、全55図 鳴海有松しぼり店 絞と町並みが描かれている。

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展示品:24 東海道・宿場間 豊国

 画・歌川豊国 版元・上総屋岩蔵 制作・1952(嘉永5)年 竪大判 東海道地鯉鮒鳴海間 有松伴左衛門 編笠の人物が描かれている。

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展示品:23 江都錦今様国尽 国芳

 画・国芳 版元・ 制作・ 竪大判

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荒木集成館

展示品:22 鳴海 重信

 画・柳川重信 版元・不明 制作・1804(文化元)年 横小判 葛飾北斎と柳川重信の共作シリーズで59図ある。重信が日本橋・六合渡し・原・鞠子・藤枝・鳴海・宮・京都を描いている。

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展示品:21 東海道桶狭間之勝景 貞秀


 画・五雲亭貞秀 版元・不明 制作・1863(文久3)年 竪大判 歌川貞秀・橋本兼次郎 下総国布佐に生まれたというが不明な点が多い。初代国貞の門人で号は玉蘭斎・五雲亭・一玉斎などを用いている。

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展示品:20 鳴海流王香広告

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展示品:19 書画五十三駅 重清


 画・重清 版元・沢村屋清吉 制作・1872(明治5)年頃 竪大判 広重の門人。鳴海は木賃宿と旅人の様子が描かれている。芳虎・暁斎・重晴らと全55図を描く。

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展示品:18 東海道五十三対・鳴海 豊国


 画・三代豊国 版元・伊場屋仙三郎 制作・1843-47(天保14-弘化4)年頃 竪大判 広重・三代豊国・国芳の歌川三傑が分担して東海道各宿に因んだ故事・伝説を62枚に描いている。

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展示品:17 今川義元桶狭間大合戦之図 年英


 画・石田年英 印刷兼発行・松木平吉 制作・明治で年月不明

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展示品:16 東海道五十三次の内・役者 豊国


 画・三代歌川豊国 版元・木屋宗次郎(馬喰四木屋) 制作・1857(安政4)年 竪大判 鳴海 宮 笠原翁 む三四 背景を省略し画中のタイトルに旅道具を配して描いている。

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展示品:15 東海道之内地鯉鮒有松之景(行列東海道) 国周

 画・豊原国周 版元・不明 制作・1863(文久3)年 竪大判 国周(荒川八十八)1835-1900(天保6-明治33)年 京都生まれ 周信に学び三代豊国に入門 号は花蝶斎・華蝶楼・豊春楼・米翁などを使った。

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展示品:14 東海道五拾三駅 立祥


 画・立祥(二代広重) 版元・不明 制作・1865(慶応元)年 竪中判 東海道五拾三駅 全55図 鳴海しぼりや 安政5(1858)年に二代目を継いだが、慶応元(1865)年に妻お辰と別れ、号・立祥・立斎・喜斎を名乗る。鈴木鎮平・文政9-明治2(1826-69)年。

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展示品:13 東海道中膝栗毛彌次馬 芳幾


 画・落合芳幾 版元・品川屋久助 制作・1860(万延元)年 横中判 全56図 十返舎一九の滑稽本を仮名垣魯文がアレンジした弥次郎兵衛と喜多八の失敗談を描く。

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展示品:12 隻筆五十三次 広重

 画・歌川広重・三代豊国合筆 版元・丸屋久四郎(丸久版) 制作・1854-55(安政元-2)年 竪大判 全55図 三代豊国が人物を描き広重が背景に五十三駅の名所を描いた。

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展示品:11 東海道五十三次之内・美人東海道 国貞

 画・国貞(三代豊国) 版元・佐野屋嘉兵衛(佐野嘉版) 制作・1836(天保7)年頃 竪中判 美人東海道鳴海ノ図 三代豊国が改名前の国貞時代に得意の美人画を前面に背後に保永堂版東海道を借用し描いている。

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展示品:10 東海道五十三次之内・役者見立東海道 豊国

 画・歌川豊国 版元・伊勢屋兼吉 制作・1862(嘉永5)年 竪大判 鳴海人丸 豊国の東海道のシリーズで前景に歌舞伎役者の見立絵を描くことから役者見立東海道と呼ばれる。

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展示品:9 大日本物産図会 広重


 画・歌川広重 版元・不明 製作・年月不明 横中判 全国の名物を描くシリーズで、尾張国有松絞り之図として絞をする女性を描く

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展示品:8 東海道五十三次・豆版

 画・版元・制作年共に不明 豆版 宮と張り合わせてあった。描かれている絵は重宣の「東海道五十三次」によく似ている・

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展示品:7 東海道鳴海(行列東海道)


 画・二代国綱 版元・不明(辻文他) 制作・1863(文久3)年 竪大判163図あり、広重・豊国・芳宗・国福ら16人の絵師が、東海道を上洛する将軍家茂の行列を題材にして描いている。

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展示品:6 東海道五拾三次・狂歌入 広重

 画・歌川広重 版元・佐野屋嘉兵衛 制作・1840(天保11)年頃 横中判 全56図 鳴海の宿に歌「たがぬいひし梅の笠寺 春さめに旅うぐいすのきてや行くらん」が挿入されている。

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展示品:5 五十三次・人物東海道 広重


 画・歌川広重 版元・村田屋市五郎 制作・1852(嘉永5)年 竪中判 全56図あり風景より人物を主として描いてあり人物東海道と呼ばれる。横判の多かった広重だが晩年になると偶然竪判が多くなる。

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展示品:4 東海道五十三次四十一 重宣


 画・重宣 版元・不明(山甚版) 制作・1854(安政元)年 横小判 東海道五十三次四十一 鳴海宿と二人連れの女性の旅人を描く。

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

展示品:3 東海道五十三次 広重


 画・歌川広重 版元・宝永堂 制作・1833-34(天宝4-5)年頃 横大判 全55枚 一般に宝永堂東海道というが、仙鶴堂と協同出版したもので他に構図を変えた6図がある。保永堂版の「新摺」 彫松田寅蔵 摺遠藤忠雄 元摺は広重の出世作。

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

展示品:2 東海道四十一・五十三次之内 広重


 画・歌川広重 版元・有田屋清右衛門(有田屋版) 制作・弘化年間(1844~48) 横小判 鳴海の町並みが描かれている。

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

展示品:1 東海道・行列東海道


 画・歌川広重 版元・海老屋林之助 制作・文久3(1863)年 竪大判 将軍家茂上洛の行列を描いたシリーズ。広重はじめ豊国ら歌川派の絵師16人がそれぞれ担当の宿場を描いている。

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション

東海道の宿場「鳴海」の古今 出展目録


 東海道の宿場「鳴海」の古今への出展目録です。ここに掲げる物の他、「猩々」など展示します。

1 東海道 行列東海道
2 東海道四十一 五十三次之内 広重
3 東海道五十三次 広重
4 東海道五十三次四十一 重宣
5 五十三次 人物東海道 広重
6 東海道五拾三次 狂歌入 広重
7 東海道鳴海 行列東海道
8 東海道五十三次 豆版
9 大日本物産図会 広重
10 東海道五十三次之内 役者見立東海道 豊国
11 東海道五十三次之内 美人東海道 国貞
12 隻筆五十三次 広重
13 東海道中膝栗毛彌次馬 芳幾
14 東海道五拾三駅 立祥
15 東海道之内地鯉鮒有松之景 行列東海道 国周
16 東海道五十三次の内 役者 豊国
17 今川義元桶狭間大合戦之図 年英
18 東海道五十三対 鳴海 豊国
19 書画五十三駅 重清
20 鳴海流王香広告
21 東海道桶狭間之勝景 貞秀
22 鳴海 重信
23 江都錦今様国尽 国芳
24 東海道 宿場間 豊国
25 五十三次名所図会 広重
26 桶狭間大合戦之図 芳年
27 燿武八景鳴海夜雨 国芳
28 桶狭間合戦稲川義元朝臣陳歿之図 芳年
29 東海道名所之内 桶狭間 行列東海道 艶長
30 錦絵新聞 東京日々新聞 第1号 芳幾
31 東京日々新聞 毎日新聞の前身 第1号 木版摺り
32 桶峡合戦之図 周延
33 尾州桶狭間合戦 豊宣
34 桶狭間大合戦之図 芳虎
35 桶狭間前田犬千代軍功 延一
36 新撰太閤記 豊宣
37 忠臣蔵鳴海絞着物姿役者 国周
38 弥生土器 台付甕 高杯 小形甕
39 土垂
40 山茶碗 甕の破片
41 須恵器 杯 蓋
42 木桶
43 日本刀 拵え
44 行器 ほかい
45 脇指 拵え
46 銭箱 鍵付
47 土人形
48 高札
49 第一回国勢調査
50 辞書



51 葵紋入萩山焼茶碗
52 火薬入れ
53 小田原提灯
54 菓子木型
55 蝋燭立て 銅製
56 東海道五十三次滑稽道中壽語録
57 矢立
58 折りたたみ式旅枕
59 おみくじ 真鍮製
60 火打石 火打金
61 煙管 煙草入
62 早道
63 銭
64 携帯用蝋燭立
65 太平武将年代重宝記
66 一円銀貨
67 方位磁石
68 印籠
69 東海道木曽路年玉道中記大成
70 提携施設のガイドブック 旅行用
71 なるみ焼大茶碗 茶碗
72 行灯
73 火熨斗 ひのし
74 貧乏徳利
75 濃尾大地震記録図 測候所記録
76 藩札
77 鳴海伏見屋での自殺書置き
78 鑑
79 武士訓 1 2 3 4冊
80 名古屋汎太平洋博覧会
81 足軽甲冑 備具足 小形甕
86 薙刀 家門入り 拵え
82 鳴海代官所建物柱
83 陣笠
84 弁当箱
85 弁当箱
87 槍 家門入り 拵え
88 薬箱 薬
89 武家提灯
90 船徳利
91 山海道中記
92 尾張国全図
93 天保十二年鳴海村絵図
94 鳴海絞 反物 洋服 手ぬぐい 朱印帳 お守り
95 幼学綱要児童用教科書 1 2 3冊
96 愛知郡史談
97 古今西方往生記 鳴海山中泉谷教主
98 鳴海球場入場券
99 なるみ荘分譲地区割図 なるみ荘第二分譲地区割図
100 鳴海名所八景和歌

2009年5月4日月曜日

復刻:みどり 名所ある記 芭蕉の史跡


 毎日新聞月1回の折り込み紙 みどり 1977年10月15日号

 名所ある記 

 芭蕉の史跡
 星崎の闇を見よや啼く千鳥

☆深まる秋の一日、芭蕉研究家でもある名古屋郷土文化会理事、鈴村秋一氏(七七)から「鳴海を訪れずして芭蕉は知れない」と教えられ、縁深い芭蕉の史跡を訪ねた。

☆松尾芭蕉(一六四四~一六九四)江戸時代の人。名は宗房。伊賀上野に生まれ、各地を旅しながら、今までの俳諧に新しい感覚の“蕉風”を確立、多くの名句、紀行文も残した。句は俳諧七部集等に結集、紀行、日記の「奥の細道」「更科紀行」「嵯峨日記」などはあまりにも知られている。

 市文化財の千鳥塚(三王山) 旧街道そば ひっそり最古の供養塔

≪芭蕉塚≫(鳴海町根古屋)
 四百年前に建立されたという来迎山・誓願寺(西山浄土宗)。門前の真新しい高札に「当山は鳴海長者の下里家の菩提寺で、この供養塔は、芭蕉が元禄七年十月十二日大阪で没した翌月の命日の追悼句会の際、如意寺に建てられた。後年、翁の高弟・千代倉知足の菩提寺である当寺に移されたものである」と記されている。

 寺門を入ると、旧街道の混雑から、一気に別世界へ入り込んだような静けさ。芭蕪翁碑はハギが咲きみだれる境内、芭蕉堂の南わきの木立の中にひっそりコケむした中にたたずむ。「芭蕉翁・碑陰に元禄七申戌年十月十二日」と刻まれた碑は木曽石で、芭蕉の供養塔としては最古。その死をいたみ、供養して建立したという。いまも年一回、俳諧をたしなむ人たちが集まり、詠じて追悼するという句会が催されている。

☆芭蕉翁碑の誓願寺をあとに旧街道を干鳥塚へ。芭蕉の時代には静かであったこの道も、今は車が、わがもの顔で走っている。暗代の流れであろうか。

≪千鳥塚≫(鳴海町三王山)
 鳴海宿の西はずれ、三王山(山の神)にある。正一位緒畑稲荷の石碑を横に見て、赤トンボの舞うコンクリートの道を一五〇メートルほど上る住宅街の一角に大きなヒノキがウロコ雲の空をにらんでそびえる。碑はその大木の下に彼岸花に囲まれ、みかげ石の台座にひっそりと立つ。

 塚域は昭和四十六年、名古屋市文化財指定の折、改装されたもので、碑の前には、墨書も消えかけて読みずらい高札に「千鳥塚 貞享四年十一月寺島安信宅での句会において、芭蕉の句“星崎の闇を見よとや啼く千鳥”を立句とする。歌仙満尾の記念として建碑されたもの。文字は芭蕉翁、芭蕉遺跡ととしては白眉の碑である。安信宅は現在、根古屋の鈴村秋一氏宅の地である。昭和四十六年二月、名古屋市」と読みとれた。高札にあるように、碑は貞享四年(一六八七)に寺島安信宅で鳴海六歌仙の知足軒寂照、寺島菐言、寺島安信、出羽守自笑、玉重辰、沙門如風らと千鳥の句を立句とする歌仙干句を満尾した喜びの記念に建てられたもので、これまた日本最古といわれる。数多い芭蕉碑の中でも直筆のものは珍しい。

 芭蕉は何度も鳴海を訪ねている。それほどにここが気に入っていたのは、鳴海の地が師匠の北村季吟や、大垣・熱田の三歌仙、桑名の知己のところに近く、交際にも、文通にも便利で、土地の人々の人情が厚く、暮らしやすかったのではないかーと鈴村氏は述べておられる。鳴海は芭蕉が愛する自然でもあったのだ。
(淡河)

 三王山(山の神)にある大木の下に静かに立つ千鳥塚



















取材後の補足 1978年1月に高札が立て替えられています。1979年1月に撮影した千鳥塚の写真を掲載します。「淡河俊之 1979年撮影」というように、帰属を明示していただければご自由に活用していただいて結構です。

 千鳥塚
 この塚は貞享四年(一六八七)十一月寺島安信宅での歌仙「星崎の闇を見よとや啼く千鳥」の巻が満尾した記念にこの丘陵に建てたものである。
 碑面の文字は芭蕉の筆で建立に当っては芭蕉も手伝い小石を運んだという伝承もある。
 碑に句の見えないのはこの頃のならわしである。
 昭和五十二年七月 名古屋市史跡指定

 昭和五十三年一月
 名古屋市教育委員会


取材後の補足 30年後、訪れると金属製の高札になっていました。2009年2月に撮影した千鳥塚の写真を掲載します。「淡河俊之 2009年撮影」というように、帰属を明示していただければご自由に活用していただいて結構です。

 千鳥塚
 この碑は、貞享四年(一六八七)冬十一月、寺島安信宅での歌仙「星崎の闇を見よとや啼く千鳥」の巻が、満尾した記念に建てたもので、文字は芭蕉の筆、裏面には連衆の名、側面に興行の年月が刻んである。これは、芭蕉存命中に建てられた唯一の翁塚であり、俳文学史上稀有の遺跡といってよい。
 昭和五十二年名古屋市史跡に指定された。
 名古屋市教育委員会

 Chidorizuka Monument
 The monument on the mound was put up in November 1687 in commemoration of the completion of a poetry book by Matsuo Basho. lt is the only monument dedicated to Basho which was built in his life time. lt is designated as a municipal cultural property(historical site).