1989 | 平成 元 | 緑都市整備事務所開設(1月) 有松で撮影の水戸黄門絞屋騒動CBCテレビで放映(3月) 市制100年の記念塔第1号が桶狭間に完成(4月) 市制百周年記念事業みどりシティフェスティバル(10月) 世界デザイン博で有松・鳴海絞展覧会開かれ「東海道五十三次絞絵」展示(11月) 名古屋市工業研究所がコンピューターによる有松・鳴海絞技術のソフト開発に着手 天満社祭り山車の曳行毎年となる 有松町桶狭間野末が緑区野末町に町名変更 |
1990 | 平成 2 | 緑区の木「カエデ」と花「ミヤコワスレ」に決まる(1月) 住民基本台帳事務電算化(7月) 名鉄有松駅周辺に自転車等放置禁止区域(10月) 有松で第1回町並みセミナー開かれる(11月) 下水道が未整備の桶狭間地区下水道整備計画決まる |
1991 | 平成 3 | 市公園緑地協会『緑区の名木』冊子発行(3月) 人口18万人突破(3月) 台風18号の影響による大雨で冠水などの被害多大となり災害救助法適用される(9月) 名古屋市観光土産品協会と同市がなごや土産品デザイン賞の最優秀賞に有松絞ハンカチーフを選ぶ(10月) 市交通局緑区の花「ミヤコワスレ」デザインリリーカード発売(10月) 市教育委員会桶狭間字嵐廻間NA320号窯群(A・B窯)立合調査実施窯体一部発見されるが遺物殆ど無し(12月) 緑区人口男89.712人・女89.929人・世帯57.964世帯・人口密度4.745・面積37.86(4月) |
1992 | 平成 4 | 有松鳴海絞会館で有松・鳴海絞り競技会(2月) 東海道の歴史を見直そうと「名古屋市東海道ルネッサンス推進協議会」発足(2月) 有松絞開祖竹田庄九と物故功労者慰霊祭営まれる(3月) 有松都市整備事務所開設(4月) 桶狭間太鼓会員6人で発足(5月) 桶狭間古戦場公園で桶狭間合戦慰霊祭(5月) 緑保健所が5月に放った50匹の幼虫が成長し桶狭間神明社一帯で蛍観察会が開かれる(6月) 有松の小塚家住宅(主家と南倉)が名古屋市有形文化財に指定される(7月) 第3回名古屋市都市景観重要建築物に有松町岡家住宅・小塚家住宅・竹田家住宅・服部家住宅・服部家土蔵・西町山車倉を指定(10月) 緑区史跡散策路を歩く会開く(10月) 国際絞会議開かれる |
1993 | 平成 5 | 緑区区制発足30年(4月) 有松で総絞の絹地十二単が作られる(6月) お茶壺道中130年ぶりの再現で京から東京への途中東海道を練り歩く(6月) 市交通局有松の山車「布袋車」リリーカード発売(6月)区制30周年記念学区対抗綱引大会(6月) 緑区制30周年記念誌発行(10月) 名古屋市内の警察署代表電話番号がいずれも0110となり緑署の代表番号も621-0110となる(10月) 緑区役所電話各部課へダイヤルインとなる(11月) 緑区制施行30周年記念事業行(11月) 文化財愛護活動に力を尽くした団体として「有松まちづくりの会」が文化庁長官から感謝状(11月) 市全社会教育センター主催の郷土史シンポジウムで緑古文書の会「桶狭間合戦と佐々木義秀」について研究発表(11月) |
1994 | 平成 6 | 東海道ルネッサンス推進事業で東海道ウオーク(10月) 東海道の絞りルートを歩く「第十三回名古屋観光ルート歩こう会」鳴海-有松を結ぶ5キロで開く(10月) 有松絞のジャンボ署旗製造業者緑警察署に贈る(10月) 桶狭間神明社で有松商工会主催「生涯学習振興事業講座」開校式で村田兆治元ロッテ投手が基調講演(10月) 東丘小学校がフラワー・ブラボー・コンクールで文部大臣奨励賞受賞(10月) 岐阜県古川町のからくり人形フェステバルに有松の神功皇后車招待される(11月) |
1995 | 平成 7 | 有松の町並み保存に情熱注いだ「有松まちづくりの会会長」竹田嘉兵衛80歳死去(1月) 市立桶狭間幼稚園風邪で3歳児クラス閉鎖(2月) 竹田家住宅名古屋市有形文化財に指定(9月) 桶狭間大池コイなど200匹浮く(9月) まちづくりを考える緑区区民広場開かれる(12月) 有松まちづくりの会及び有松の町並み名古屋市都市景観賞特別賞受賞 |
1996 | 平成 8 | 有松町並み保存地区歴史的遺構調査報告書名古屋市教育委員会発行(3月) 竹田嘉兵衛さんの追悼文宗を作る会『追悼文集嘉兵衛』発行(8月) これからの有松のまちなみを考える第1回まちなみ協議会開催(10月) 三笠宮妃殿下が有松訪問 |
1997 | 平成 9 | 公儀御茶壺一巻留名古屋市市政資料館発行(3月) 有松絞りまつり(6月) |
1998 | 平成10 | 市が有松をスタートとする「東海道ウオーク・ナビ」(5月) 有松絞りまつり(6月) 有松小学校で名古屋環状2号線(名古屋市のほぼ外周を通る東西約15キロ・南北約20キロ・総延長約66キロの環状道路で自動車専用と一般国道302号で構成)説明会開かれる(7月) 有松駅南の地区計画「伝統の町並みとする」を市の都市計画審議会で承認 名鉄バス「有松・大清水線」新設し小型バス運行(10月) 有松絞商工協同組合の招待できんさんぎんさんが有松鳴海絞会館で絞りのくくりを体験(11月) 有松郵便局古い町並みに合わせ新築オープン(11月) 名古屋新世紀計画2010を考える緑区のつどい |
1999 | 平成11 | 成人式2676人が新成人となる(1月) 有松町並み保存地区で火災古い建物に被害無し(2月) 有松絞開祖物故者の慰霊祭(3月) 市文化財竹田邸で池田満寿夫展と佐藤陽子コンサート(4月) リサイクルステーション桶狭間・潮見が丘に開設(5月) 2008年稼働予定の名古屋市新設ごみ焼却施設鳴海工場の環境影響評価方法書縦覧開始(6月) 緑農業委員会を市農業委員会に一本化(8月) 有松の町並み保存で住宅の新築等への融資枠を大幅に増額 |
2000 | 平成12 | 豪雨で災害救助法適用(9月) ごみ焼却施設鳴海工場が点検・休止で南陽工場搬送となり収集時間変更(10月) 集中豪雨被害大きく区民まつり「みどりシティフェスティバル2000」中止(10月) |
2001 | 平成13 | 成人式2501人が新成人となる(1月) 郷土史講演会「桶狭間合戦」開催(3月) 花・水・緑公園通り推進事業「みどりの探検隊」実施(5月)緑文化小劇場開館(6月) 大高緑地公園で東海道宿場・伝馬制度400周年記念みどり・シティ・フェスティバル2001(10月) 歴史あるまちづくり提言者募集(10月) 緑区史跡散策路を歩く会有松の町並み歩く(11月) 花・水・緑の公園通り推進事業のロゴ&シンボルマークを募集(11月) 個人や団体の活動情報を収集・提供する「緑区情報バンク」開設登録募る(11月) |
2002 | 平成14 | 有松絞商工協同組合が創立50周年記念事業として頼山陽が有松を訪れ詠んだ詩を刻んだ石碑建てる(2月) 有松絞商工協同組合『創立50周年記念誌』発行(3月) 有松町桶狭間上ノ山・嵐廻間・権平谷・神明廻間・清水山・切戸山の一部に下水道完成(5月) |
2003 | 平成15 | 12の会場で成人式2442人が大人の仲間入り(1月) 町を美しくする運動環境デーなごや(5月) 大高緑地でみどり・シティ・フェスティバル2003(10月) ごみ処理施設「鳴海工場」建て替えで建設・運営にPFI(民間資金等の活用で公共施設等の整備)方式導入を決める(10月) |
2004 | 平成16 | 緑区成人式2557人の新成人誕生(1月) 桶狭間の戦いを学ぶ会設立(5月) 緑区役所窓口サービス向上懇談会委員募集(6月) 緑区人口が市内一番となる(8月) 安心・安全で快適なまちづくり区懇談会(8月) 緑生涯学習センターで緑区の歴史写真・資料展(8月) 大高緑地でみどり・シティフェスティバル(10月) 有松桶狭間観光振興協議会設立総会開く(11月) |
2005 | 平成17 | 緑区成人式2465人が大人の仲間入り(1月) 緑区安心・安全で快適なまちづくり協議会設立(1月) 元気フェスタNAGOYAオアシス21「愛・地球博」応援イベント参加(1月) 安心・安全で快適なまちづくり協議会総会(6月) 元気フェスタNAGOYAささしまサテライト会場で緑区の個性と魅力を発信(8月) 地球を冷やそ!打ち水大作戦(8月) |
2006 | 平成18 | 緑区11会場の成人式2344人が大人の仲間入り(1月) 安全・安心の町をめざし街を見守るフクロウ「みてる君」の「街の目(芽)運動」シンボルマーク決定(1月) |
2007 | 平成19 | 名古屋環状2号線「有松PR館」リニュアール(1月) 有松の旧神谷家(母屋・離れなど)1935年建築と大高の萬乗醸造(瓶詰作業場など)1794年創業が国の登録文化財に答申される(3月) 町並み変化で有松駅周辺の自転車等放置禁止区域変更(4月) 朝鮮通信使400周年記念日韓友情ウオーク(ソウル~日本橋)開かれ鳴海・有松を歩く(5月) レジ袋有料化実施(政令指定都市で初めて緑区をモデル地区として26店舗で実施)1枚5円(10月) |
2008 | 平成20 | 有松が開村400年迎える(2月) |
2007年10月22日月曜日
有松・桶狭間の歴史年表(平成)
有松・桶狭間の歴史年表(昭和)
1926 | 昭和 元 | 愛知電気鉄道有松裏-千種間鉄道敷設免許申請(1月) 博覧会出品のため愛知出品協会設立有松絞商工組合組長竹田嘉兵衛評議員となる(2月) 愛知電気鉄道鳴海-小坂間複線になる(4月) 有松の実業補習学校内に青年訓練所設置(7月) 愛知電気鉄道有松裏-名古屋駅前間鉄道敷設免許申請(8月) 有松・大高・鳴海の電話加入者数117件となる |
1927 | 昭和 2 | 阿刀山慈昌院創建し弘法大師大座像入仏式実施(2月) 東亞勧業博覧会に有松絞商工同業組合絞出品(3月) 北丹後地震でゆれる(3月) 第3回中部六県連合織物共進会に有松絞出品賞牌受賞(9月) 桶狭間の私設図書館が私立図書館として認可(11月) 愛知電気鉄道バス有松裏駅前-熱田駅前間開通(12月) 有松小学校の新校舎高根に建設 御大典奉祝名古屋博覧会に有松絞出品 |
1928 | 昭和 3 | 大禮記念国産振興東京博覧会に有松絞商工同業組合絞出品有功賞牌受賞(3月) 中外産業博覧会絞染出品功労賞受賞(4月) 第4回中部六県連合織物共進会有松絞出品1等賞受賞(5月) 大禮記念京都大博覧会絞染出品(9月) 御大典記念国産振興阪神大博覧会に有松絞出品、優良国産賞・銀賞・感謝状受賞(11月) 愛知電気鉄道有松裏駅-熱田駅前間のバス営業開始(12月) 有松と桶狭間の祭り分離 桶狭間処女会と有松処女会が統一され有松処女会設立 桶狭間で『桶狭間史跡』刊行 御大典奉祝名古屋博覧会に有松絞出品 |
1929 | 昭和 4 | NHK桶狭間放送所で第一放送の送信始まる |
1930 | 昭和 5 | 日本海々戦二十五周年記念海と空の博覧会に絞出品(3月) 愛知県特産品即売会に有松絞商工同業組合絞染出品(7月) 第3回国勢調で有松町人口2.275人(10月) 桶峡八景が梶野精堂画で作られる この頃、人絹絽の浴衣大流行 |
1931 | 昭和 6 | 有松郵便局集配局となる(3月) 名鉄桶狭間駅開業 桶狭間に自治組織として区制施行 |
1932 | 昭和 7 | 大根切干『尾張知多大根切干同業組合沿革ト統計』刊行される(10月) 愛知農商銀行倒産(12月) 有松絞開祖竹田庄九郎頌徳碑建つ 有松絞改善同盟会設立 有松郵便局集配業務開始 有松に自治組織としての区制施行 NHK桶狭間放送所で第二放送の送信も始まる この頃 東海道コンクリート舗装される |
1933 | 昭和 8 | 愛知県絞同業組合聯合会解散 有松絞改善同盟会と鳴海絞商業組合業務提携 愛知県絞組合聯合協会結成 桶狭間史蹟保存会ができ機関紙『桶峡』刊行 桶狭間古戦場跡に今川義元公と刻んだ石碑 桶狭間合戦史績絵葉書刊行 |
1934 | 昭和 9 | 知多郡と鳴海町を地域とした知多製氷御商業組合設立(5月) 岐阜県中部地震でゆれる(8月) 名鉄桶狭間駅廃止(12月) 第1回絹布絞競技会開かれる 第1回「有松しぼり祭」開かれる(7月) 愛知県輸出絞貿易組合設立 |
1935 | 昭和10 | 国道改修工事に伴う桶狭間付近の愛知電気鉄道立体交差工事が完成(3月) 愛知電気鉄道と名岐鉄道が合併し名古屋鉄道となる(8月) 有松町に突風と拳大の雹が降り農作物に被害(8月) 第4回国勢調査有松町人口2.131人(10月) 有松町と鳴海町四大字(大将ケ根・境松・有松裏・米塚)の合併問題が起きる 有松愛宕東古窯跡道路工事により壊滅行基焼第二型式の山茶碗や山皿出土 愛知県輸出絞貿易組合解散 この頃 有松の絞を営む商家21軒 有松公設市場が鳴海町有松裏に移転 有松の祭りに登場する猩々作る |
1936 | 昭和11 | 神戸ガーバー商会と取引開始絞輸出会社設立アフリカへ昭和13年までに木綿絞79.823反輸出(8月) 実業補習学校と青年訓練所を統合し有松町立青年学校が小学校に併置 有松絞工業組合発足 |
1937 | 昭和12 | 名古屋汎太平洋平和博覧会に有松絞出品金牌受賞(5月) 桶狭間神明社改築(2月) 天満社祭りの山車曳き出し中止となる 酒造家と酒類商組合で知多郡酒類販売統制会設置 |
1938 | 昭和13 | 有松絞工業組合創立総会開く(2月) 有松絞工業組合員名簿作られる(6月) 有松町信用販売購買利用組合組織(12月) 愛知県絞工業組合結成(組合員有松163人・鳴海90人・名古屋71人) 有松町が横須賀警察署の管轄となる 愛知電気鉄道知多郡の電燈事業を東邦電力株式会社に譲渡 綿系配給統制規則で絞業も戦時統制始まる 有松しぼり祭中止 天満社祭りの傘鉾中止となる 桶狭間農民共同資金を基礎とした産業組合設立 |
1939 | 昭和14 | 戦時体制強化のため消防団を警防団に改編(4月) |
1940 | 昭和15 | 桶狭間部落農事実行組合設立(11月) 有松絞商工同業組合解散 第5回国勢調査で有松町世帯数570戸、人口2.747人 繊維製品配給統制規則公布 有松絞「開祖頌徳会」結成 天満社祭りの音頭台中止となる |
1941 | 昭和16 | 有松の尋常高等小学校が国民学校となる 三基並んだ生山古窯跡国道1号線工事で破壊行基焼第二型式の山茶碗や山皿出土 この頃 絞業者の転廃業が多くなる |
1942 | 昭和17 | 国道1号線開通 愛知県絞技術保存会設立される技術保存会員27名 愛知県絞製造工業組合設立 繊維製品配給消費統制規則公布 衣料総合切符制実施 |
1943 | 昭和18 | 名鉄有松裏駅が有松と改称(11月) |
1944 | 昭和19 | 名鉄東部線(有松)が新名古屋駅乗り入れ(9月) 東南海地震で有松に被害でる(12月) 空襲で死傷者でる(12月) 愛知県絞製造施設組合結成(組合員数27名) |
1945 | 昭和20 | 三河地で有松に被害(1月) 空襲により桶狭間で公会堂と民家4戸全焼・有松では民家のほか役場も破壊され旧有松絞商工同業組合事務所に移転(5月) 戦時農業団解散(9月) この頃 有松愛宕西古窯跡開墾で破壊消滅 |
1946 | 昭和21 | 桶狭間青年親睦会再発足(1月) 有松青年団再発足(4月) 有松で新憲法発布記念の祝賀会協賛で山車曳行 南海道沖地震でゆれる(12月) GHQの指令で天満社氏子組織が文嶺講となり祭りを祭礼総代の主体で開くことが決まる |
1947 | 昭和22 | 学制改革で有松中学校が開校(4月) 愛知県絞製造施設組合が「愛知県絞染工業協同組合」に組織変更(4月) 有松郵便局無集配局となる(8月) 有松町消防団結成と共に消防団後援会組織できる(10月) 知多郡連合青年団発足 有松の国民学校が町立の小学校となる 天満社文嶺講が中心となり山車曳行の祭り再開 第6回国勢調査有松町人口3.502人 |
1948 | 昭和23 | 有松が国家地方警察知多地区警察署の所管となる(3月) 福井地震でゆれる(6月) 有松局電報配達業務廃止有松が鳴海局直配区域となる(7月) 有松農業会解散(8月) 有松農業協同組合設立(8月) 有松町立有松中学校校舎建設で寄付者に感謝状 小学校で味噌汁給食開始 有松町婦人会設立(10月) 国有綿の指定加工でアフリカ向け輸出用絞生産開始(10月) |
1949 | 昭和24 | 愛知県瀬戸保健所鳴海支所発足するも大高・有松は半田保健所が業務を担当(3月) 名古屋法務局有松出張所設置(6月) 有松町公民館開館(12月) 有松絞りまつり再開 絹糸布戦時統制令撤廃 |
1950 | 昭和25 | 有松青年団機関紙『ありまつ』発行(1月) 有松町商工会設立(2月) 公民館活動で『有松弘報』創刊(2月) 有松青年学級開校式実施(8月) 第7回国勢調査有松町3.589人(10月) 商工協同組合法の廃止で愛知県絞染工業組合解散 町道森下線で桶狭間大池下-大府町三ッ屋間工事着手 |
1951 | 昭和26 | 有松で農業委員会設置(7月) 有松に社会福祉協議会組織(8月) 綿糸布戦時統制令撤廃 有松の共同墓地「愛宕園」完成 |
1952 | 昭和27 | 有松絞商工協同組合設立(1月) 桶狭間青年親睦会機関誌『わかくさ』発行(1月) 奈良県北部地震でゆれ感じる(7月) 有松町制60周年記念式典開く(10月) 文部省文化財保護専門審議員が絞の調査実施 有松消防団四輪消防ポンプ車導入 有松青年団と桶狭間青年親睦会が連絡協議会設置 有松に勤労者互助会発足 |
1953 | 昭和28 | 有松に青少年問題協議会組織(4月) 有松町で民家の調査実施 長福寺地蔵堂再建 電話線の盗難多くなり有松で1件発生 |
1954 | 昭和29 | 自治体警察の廃止により有松町は横須賀警察署大高警部補派出所の管轄になる(7月) 有松町議会が名古屋市への合併を議決(10月) 有松小学校にプール完成 有松町人口3.850人(有松2.770人、桶狭間1.080人)戸数780戸 国道1号の完成で東海道(旧国道1号)を県道に編入 砂利道の国道1号有松地内で舗装工事開始 |
1955 | 昭和30 | 愛知県議会が有松町の名古屋市へ合併を否決(3月) 有松町農業協同組合が愛知県共済農業協同組合連合会に加入する(8月) 有松町の名古屋市編入を内閣総理大臣裁定で「編入ならず」と出る(9月) 第8回国勢調査有松町3.850人(10月) 愛知県『有松町の民家』刊行 有松神社建つ 有松絞商工協同組合が絞服地の研究を始める 東京都綿商会館で開かれた全国浴衣競技大会に絞出品 京都染織会館で有松絞見本市開く 名鉄バス名豊線名古屋駅前-豊橋駅前間豊橋鉄道と相互乗り入れして開通 |
1956 | 昭和31 | 有松町と大高町境界露根谷大高側古窯跡「露根谷の古窯跡群」として紹介 大芝池北嵐廻間古窯群を有松中学校が調査二基の窯確認され行基焼第二型式の山茶碗や小皿出土 小学校の完全給食実施 有松町『有松町史』刊行 |
1957 | 昭和32 | 有松町の古窯跡11地点13基紹介 清水山古窯跡群有松中学校が発掘調査行基焼第二型式の山茶碗出土 |
1958 | 昭和33 | 愛知県地方計画協議会で有松町は名古屋市に合併すべきと結論(11月) 名鉄バス有松線刈谷駅前-有松駅口間開通(12月) 天満社祭り山車と馬之頭は中止となる 郷土調査会『有松の古窯』刊行 |
1959 | 昭和34 | 有松駅北側の整備大略できる(8月) 伊勢湾台風で有松に浸水等による被害多く死者1人、負傷者9人、家屋全半壊31人(9月) 名鉄バス鳴海線大高駅前-名和間と鳴海住宅線有松駅前-鳴海住宅間開通(12月) 桶狭間の「戦評の松」枯れる 天満社祭り音頭台と梵天は当番町のみが出すことになる 有松絞商工協同組合と鳴海絞商工協同組合連絡会発足 |
1960 | 昭和35 | 名古屋市議会大都市制度促進実行常任委員会が合併について意向打診に有松を訪問(2月) 第9回国勢調査有松町4.544人(10月) 名鉄バス有松線・刈谷駅前-有松-鳴海住宅、名豊線・名古屋駅前-有松-豊橋を運行 |
1961 | 昭和36 | 有松商工会設立(3月) 北美濃地震でゆれ感じる(8月) 愛知用水完成し通水式行実施(9月) 台風18号(第二室戸台風)で被害(9月) 名古屋市議会大都市制度促進委員会が有松・大高・鳴海・上野横須賀の五町を合併すべきとし県議会議員と懇談会(12月) 天満社祭りの音頭台の登場最後となる 緑電話局開設 |
1962 | 昭和37 | 愛知用水上下水道完工で知多上野浄水場を利用し有松町営水道による給水開始(6月) 集中豪雨で被害(7月) 台風14号で被害(8月) 有松町が名古屋市との合併を見送り(9月) 桶狭間合戦史跡の戦評の松二代目を植樹 韓国との絞加工貿易を再開 |
1963 | 昭和38 | 越前岬沖地震でゆれ感じる(3月) 長尾名古屋市助役が有松町を訪門し39年度中の合併を申し入れ(12月) 名四国道(国道23号)完成 名古屋まつり協賛絞展第1回が開かれる この頃 慈雲寺地蔵堂再建される、堂は桶狭間下組の所有で古くは長福寺と共同で管理 |
1964 | 昭和39 | 有松町議会は名古屋市との合併に対し全員賛成(5月) 名鉄バス有松線ワンマン化(7月) 有松町議会、大高町議会、名古屋市議会が合併を議決(9月) 服部孫兵衛宅愛知県重要文化財に指定(10月) 緑消防署に救急隊新設(11月) 財団法人「有松絞技術保存会振興会」設立(11月) 有松が名古屋市に合併で緑区に編入され緑区役所有松支所できる(11月) 緑区が愛知警察署の管轄となる(12月) 水道局緑業務所相原町27に移転(12月) 旧知多郡有松町役場跡に記念碑設置(12月) 有松消防団発足(12月) 天満社文嶺講が規約を改正し町管理の3台の山車を一括管理するとともに山車の曳行を隔年で再開 名古屋まつり協賛絞展に有松・大高・鳴海の協同組合が合同で出品する 松岡たま絞の技術で愛知県指定無形文化財となる |
1965 | 昭和40 | 竹田嘉兵衛手書『有松絞り』編纂刊行(3月) 有松防火推進協力会発足(5月) 岡崎信用金庫事業地区に有松町加わる(6月) 有松の一部に宅地造成等規制法が適用(9月) 有松消防団が繊維会社から明治33年製造の蒸気ポンプを譲り受け消防学校に展示(9月) 第10回国勢調査有松町世帯数1.525戸、人口6.311人(10月) 有松・鳴海絞を名古屋絞として統一 愛絞会誕生賛同者45名 国の文化財保護委員会に絞の原反と見本を提出 緑電話局(27局)のサービスを開始 この頃 絞服地に進出44~5年に最盛期 |
1966 | 昭和41 | 有松絞技術保存会『有松志ぼり』発行(1月) 市営バス左京山-名古屋港港が有松口無池-名古屋港に延長(1月) 農業共済事業(有松)緑区農業共済組合に移管(4月) 名鉄有松変電所5.500Kwに増強(6月) 有松の農業委員会廃止し緑区農業委員会に統合(7月) 大根・白菜・玉葱の3品目が野菜指定産地「名古屋緑」として 国の重要野菜の指定を受ける(8月) 有松の合併地区行政協議会廃止(11月) 桶狭間古戦場調査委員会が『桶狭間古戦場調査報告書』市教育委員会に提出 |
1967 | 昭和42 | 緑警察署有松派出所完成(3月) 愛知県絞工業組合設立(8月) 絞商工協同組合と愛絞会代表が京都絞組合と懇談会 |
1968 | 昭和43 | 緑区の公衆浴場11軒(3月) 有松幼稚園認可(3月) 愛知緑公衆電話会発足(3月) 緑防火推進協力会発足(6月) 緑消防団発足(10月) 緑区木工業・緑区鉄工業各防火研究会発足(12月) 名鉄電車が今村-鳴海間で時速120キロ試運転 祇園寺山門再建 |
1969 | 昭和44 | 鳴海電報電話局緑電報電話局と改称し名古屋市内通話扱いとなる(2月) 緑高等学校開校(4月) 有松町農協と鳴海町農協が合併し緑農業協同組合設立(5月) 有松商工協同組合理事会で「有松町保存会準備会」への町民参加呼びかけ決める(12月) |
1970 | 昭和45 | 有松「有松町保存会準備会」話し合いの集い(4月) 有松商工協同組合が有松町保存のため「資料展示館」建設など具体的構想で市への働きかけ決める(3月) 集中豪雨により被害出て緑区に災害救助法適用 第11回国勢調査緑区の人口94.218人(10月) 勅使ケ池緑地と藤塚の一部を省き緑区が市街化区域に指定 広報名古屋に緑区版新設 県教育委員会により緑区の遺跡分布調査実施73地点82基の古代から中世の古窯跡確認 神沢古窯跡を白菊古文化研究所発掘調査し須恵器や陶塔発掘され奈良朝須恵器第二型式の窯と判明 |
1971 | 昭和46 | 渥美半島地震でゆれ感じる(1月) 緑電報電話局で通話中着信サービス開始(2月) 太子小学校が東丘小学校分校として開校(4月) 有松公民館改築完了し開館(4月) 台風23号で浸水などの被害が大きく災害救助法適用(8月) 絞技術者の会「有松むつみ会」結成(10月) 学生や若手研究者で「有松ゼミナール」発足し有松町の住民に意識調査実施(10月) 緑区の古窯跡『名古屋考古学会会報第20号』に発表 高松宮同妃殿下が有松訪問 |
1972 | 昭和47 | 緑区と愛知郡東郷町・豊明町との境界変更(2月) 緑図書館開館(8月) 有松絞技術保存振興会『有松志ぼり』刊行(10月) 有松絞商工協同組合『20年のあゆみ』発行(10月) 重要無形文化財「有松絞」実演会有松公民館で開催 有松の家並みを保存し近代的な町づくりを考える「有松まちづくりの会」準備会が発足(10月) 名四国道全線開通(10月) 市営桶狭間荘完成 絞技術者の減少で計画的な後継者育成開始 |
1973 | 昭和48 | 下水道整備始まる(1月) 有松天満社文嶺講の山車「布袋車」「唐子車」「神功皇后車」名古屋市文化財に指定(2月) 有松「有松まちづくりの会」発足(2月) 緑区の公衆浴場11軒(3月) 太子小学校が東丘小学校から独立開校(4月) 東陵中学校が鳴海中学校から独立開校(4月) 有松「有松まちづくりの会」後援会開く(5月) 有松「有松まちづくりの会」奈良県今井町見学会実施(5月) 台風20号で電話回線に罹障回線約1400件被害(9月) 緑電報電話局の電話加入者は平手局収容を含め25.063件 |
1974 | 昭和49 | 緑区役所新庁舎が完成(敷地面積9.111平方メートル建物面積5.720平方メートル)有松の支所が廃止(1月) 水道局緑業務所青山2丁目に移転(1月) 区制10周年を記念し、緑区の歌と「み」と木の葉をデザイン化した区のシンボルマーク決まる 有松「有松まちづくりの会」第一回総会開く(2月) 有松町・妻籠宿・橿原市今井町の三町で「町並保存連盟」発足(4月) ゴミ分別収集を開始(7月) 愛知県緑警察署の庁舎完成し鳴海警部派出所は緑警察鳴海派出所となる(8月) 有松住民の意識調査「有松ゼミナール」実施(8月) 有松小学校100周年記念誌『有松』刊行(10月) 加藤かねさん(明治38年生まれ)鳴海・有松絞(三浦絞)で名古屋市技能功労者として表彰される |
1975 | 昭和50 | 有松「有松まちづくりの会」第1回総会(2月) 県絞工業組合は有松・鳴海絞の技術を広く紹介する「絞りの祭典」を丸栄で年1回開催を決める(2月) 緑消防署有松出張所桶狭間に設置(4月) 緑図書館で「なつかしの教科書展」開かれ国語読本など120点展示(4月) 緑市民病院心臓病医療チーム発足で総合病院と承認(5月) 緑福祉会館と児童館完成(5月) 有松公設市場開場(8月) 絞「有松・鳴海絞」が国の伝統的工芸品産業の指定(9月) 桶狭間学区が有松学区から独立(9月) 有松小学校分校(現桶狭間小学校)開校(9月) 市教育委員会『有松町並調査報告』刊行(9月) 第12回国勢調査、緑区の人口119.126人(10月) 有松の加盟する「町並み保存連盟」が「全国町並み保存連盟」と改称 |
1976 | 昭和51 | 第1回区民植木市と花の市開催(3月) 市営桶狭間荘完成(3月) 県立鳴海高等学校開校(4月) 桶狭間小学校が有松小学校から独立開校(4月) 桶狭間消防団発足(4月) 桶狭間防火推進協力会発足(4月) 桶狭間字セト山で町名変更(5月) 桶狭間小学校にプール完成(7月) 桶狭間小学校校章決まり体育館完成(9月) |
1977 | 昭和52 | 町並みに調和する名鉄有松駅新駅舎完成(1月) 桶狭間小学校校訓碑除幕(2月) 緑区全域が速達配達区域となる(4月) 愛知県絞工業組合創立10周年記念式緑区役所で開催(4月) 農業土木委員会制度発足(5月) 桶狭間古戦場保存会発足し毎年5月に古戦場祭りの開催を決める(5月) 第1回緑区農産物品評会開催(12月) |
1978 | 昭和53 | 有松町有松でパチンコ店火災(1月) 名古屋桶狭間郵便局開局(3月) 名鉄『有松・鳴海絞』発行(4月) 鞍流瀬川改修工事始まる |
1979 | 昭和54 | 有松絞技術保存振興会が『有松志ぼり』再々発行(2月) 市教育委員会『名古屋市遺跡分布図(緑区)』発行(3月) 桶狭間小学校校歌「朝日が昇る」完成(3月) 有松の山車「布袋車」「唐子車」のからくり人形、姉妹都市提携20周年を記念しロサンゼルス市で披露(8月) 緑区救急医療情報システム対象地域となる(10月) 東丘小学校20周年記念誌『東丘』発行 緑区の人口は137.766人の世帯数39.613戸で面積3.794K平方メートル 絞の活路開拓調査報告書『伝統産業有松・鳴海絞り産地の実態と将来像』愛知県絞工業組合発行 |
1980 | 昭和55 | し尿予告収集実施(1月) 市営バス(高速1号)森の里-栄を新設(2月) 緑区役所が『緑区の遺跡と文化財』発行(3月) 第13会国勢調査で緑区の人口145.872人(10月) 緑区民懇談会開催(11月) 緑地保全地区に米塚・火上山・鷲津・桶狭間を指定(11月) 和光山長福寺本堂鉄筋で再建 有松旧東海道名残の松枯れる 南陵小学校の用地整地工事中に古窯みつかる 有松で歴史的環境研究会名古屋市伝統的町並み保全基礎調査 南陵学区が桶狭間学区から独立 中国との絞加工貿易を開始 |
1981 | 昭和56 | し尿の定時収集実施(2月) 市教育委員会『名古古屋市内の山車と神楽民俗文化財調査報告書』発行(3月) 市教育委員会『名古屋市の近世社寺建築』発行(3月) 南陵小学校が桶狭間小学校から独立開校(4月) 緑区休日急病診療所開設(4月) 南陵防火推進協力会発足(4月) 桶狭間北部土地区画整理組合設立(9月) 桶狭間庚申堂子供の火遊びで堂の一部焼ける ガスの天然ガス転換作業始まる 有松で街道の松二代目植樹し記念碑建てる |
1982 | 昭和57 | 緑区の人口150.031人(1月) 慈雲寺パンフレットできる(2月) 有松に自転車駐輪場開設(4月) 緑区民懇談会開催(10月) 緑区内のガス全て天然ガスに転換 太子小学校に校歌を刻んだ歌碑 下水道普及状況は区面積の約30%となる 名古屋市の川を美しくする会に「旭出川愛護会」「鞍流瀬川を美しくする会」発足 愛知用水二期事業で長期安定供給を目的とした改修工事開始 |
1983 | 昭和58 | 車椅子用公衆電話ボックス区役所前に設置(1月) 緑警察署東陵交番完成(2月) 市教育委員会が『名古屋の石造物』発行(3月) 有松スポーツセンター開所(5月) 市制100年(1989年)に向け記念事業「私の提案」募集で「桶狭間古戦場付近を整備し有松の町並みとともに名所に」などの提案(6月) 緑農業協同組合が緑信用農業協同組合に名称変更(6月) 緑区の「史跡散策路」5コース設定で記念に史跡散策路を歩こう会開かれる(7月) 名古屋市が「町並み保存要綱」制定し有松を保存第1号に指定(8月) 台風10号の影響で集中豪雨で被害でる(9月) 緑区政20周年記念行事行挙行(10月) 緑区役所が区制20周年記念『緑区誌』発行(10月) 緑消防署有松出張所の電話番号変更(12月) 愛知県絞工業組合は有松・鳴海絞製品の一部加工委託を中国絲綢公司との間で正式調印(12月) 名四国道と国道1号線を結ぶ刈谷新道完成 |
1984 | 昭和59 | 桶狭間小学校「希望の像」除幕(2月) 有松・鳴海絞会館完成(3月) 緑信用農業協同組合『緑信用農協のあゆみ』発行(3月) 有松駅周辺で自転車の街頭無料点検と放置自転車に注意札付け(5月) 有松しぼり音頭できる(6月) 緑区の伝説と民話発行(9月) 市バス料金140円を二段階方式で改定150円(3月)160円(10月) 郷土資料刊行会『緑区の歴史』発行 緑区内13カ所の市有墓地の戸籍簿作り始まる 市教育委員会『名古屋市遺跡分布図(緑区)〔改定版〕』発行 有松が名古屋市で初の「町並み保存地区」に指定される 三笠宮殿下が有松訪問 |
1985 | 昭和60 | 地域資源からのまちづくり『有松の風を興そう』愛知県商工会連合会・有松商工会発行(3月) 有松の服部家倉を市文化財に指定(4月) 南陵消防団発足(4月) 有松「東海道五十三次名物絞りまつり」30年ぶりに復活し開催(6月) 桶狭間消防団消防器具庫完成(7月) 南陵小学校で緑区総合防災訓練(9月) 桶狭間小学校開校10周年で記念誌『桶狭間』発行(12月) 有松・鳴海絞会館と碧海信用金庫有松支店が名古屋市都市景観賞受賞 緑区消防団(19団)連合検閲式(5月) |
1986 | 昭和61 | 旧有松町役場跡地に記念の標柱(3月) 緑警察署有松派出所なまこ壁で改修完成(3月) ミス絞りコンテスト有松・鳴海絞会館で開く(5月) 市公害対策局がまとめた「公共用水域の常時監視結果」鳴海橋調査で扇川・手越川の水質の悪化が判明(6月) 東丘小学校で「夢を大切に」像の除幕式行われる(9月) 皇太子ご夫妻が有松鳴海絞会館を訪問(11月) |
1987 | 昭和62 | 有松の服部幸平宅の倉が県文化財に指定(1月) 県文化財「井桁屋」服部邸で文化財防火デー消防訓練(1月) 桶狭間の初庚申大祭でモチ投げ行われる(3月) 有松の岡家住宅(主屋・作業場・東倉・西倉)市文化財に指定される(6月) 緑農業委員会発足(8月) 有松町づくりの会が「有松」イラストマップ作成(10月) |
1988 | 昭和63 | 緑区の人口168.369人面積37・92平方キロ、世帯52.056戸(1月) 名古屋市教育委員会が歴史的町並み保存事業として個性のある町と暮らし(有松)パンフレレット作る(3月) 文化財の山車を常設展示「有松山車会館」オープン(6月) 桶狭間古戦場土地区画整理事業で整備されに水の流れ施設など完成(8月) |
有松・桶狭間の歴史年表(大正)
1912 | 大正 元 | 大風で今川義元鎧掛けと伝える松枯れる 愛知電気鉄道電燈供給事業開業で有松に電灯がつく(2月) この頃 桶狭間庚申堂焼失 |
1913 | 大正 2 | 鳴海郵便局と有松郵便局を接続する名古屋有松2番通話線新設(7月) 有松郵便局接続電信回線名古屋形原線に変更(9月) 桶狭間青年親睦会第1回敬老会開催 愛知電気鉄道有松町-熱田東町間(有松線)鳴海町-知多郡上野村間(大高線7.10失効)に鉄道敷設免許許可出される |
1914 | 大正 3 | 電話加入者数、大高13台、有松22台、鳴海10台 暴風雨で稲作に大きな被害出る 出原鐘次郎立筋絞の手動式機械発明 |
1915 | 大正 4 | 竹田嘉兵衛愛知電気鉄道取締役に就任(10月) 大典記念京都博覧会に有松絞出品銀賞受賞(11月) 桶狭間青年親睦会と有松青年蛍雪会を統一し有松青年団を設立 愛知電気鉄道神宮前から有松町間の鉄道敷設工事開始 |
1916 | 大正 5 | 愛知電気鉄道有松裏-矢作町間鉄道敷設免許を申請するが不許可(10月) 愛知県海部郡教育会『尾張国地名考』刊行 この頃 手羅仙絞を工具を利用して突出し羅仙絞に改良 |
1917 | 大正 6 | 愛知電気鉄道有松線笠寺-鳴海町有松裏5.6キロ(単線)開通 有松裏駅が営業を開始(5月) 尾張知多大根切干同業組合設立(8月) 名古屋瓦斯有松町のガス料金値上げ(9月) 長雨による稲の凶作と小作料の引き下げをめぐり鳴海・大高・有松一帯の小作人と地主の対立で小作争議起きる 長福寺惣門再建 有松絞商工同業組合の組織拡充計で大高の絞業者も加入 |
1918 | 大正 7 | 愛知電気鉄道鳴海町-知立町間鉄道敷設免許申請するも不許可(3月) 意匠商標品展覧会に有松絞出品有功賞牌受賞(4月) 有松で林惣木材販売と製材を開始(6月) 有松町立商業補習学校と桶狭間青年親睦会を統一有松町立実業 補習学校開校(11月) 沢田竜太郎模様染色法の特許を取得 |
1919 | 大正 8 | 有松絞工業合資会社絞製造販売絞請負を始める(1月) 大日本名所図会刊行会『尾張名所図会』刊行(1月) 愛知電気鉄道鳴海町-知立町間鉄道敷設免許再申請(4月) 全国染織工業博覧会に有松絞出品銅賞受賞(5月) 愛知電気鉄道有松-岡崎間自動車運輸営業譲り受け許可され田 代栄重ら経営のバス事業を継承(5月) 愛知電気鉄道鳴海町-知立町間の鉄道敷設免許許可(6月) |
1920 | 大正 9 | 第1回国勢調査で有松町世帯数461戸、人口2140人 |
1921 | 大正10 | 名古屋区裁判所有松出張所が往還北に完成(7月) 有松へのガス供給は採算が取れず中止(8月) 全国特産品評会に有松絞出品2等賞本杯受賞(10月) 相羽山慈雲寺縁起書かれる(12月) 桶狭間の梶野綱吉が尾張知多大根切干同業組合評議員になる 桶狭間の御料地払い下げ 有松公設市場完成 豊後絞を改良し疋田三浦絞の手法完成 |
1922 | 大正11 | 尾張知多大根切干同業組合と三河大根切干同業組合の合併協議されるが機熟さず不調に終わる(5月) 竹田嘉兵衛愛知電気鉄道取締役辞任し再就任(6月) 有松絞東京で開かれた万国博覧会に出品 |
1923 | 大正12 | 3回目の有松裏分割問題起きる 名古屋市役所勸業課絞に関する調査実施(3月) 愛知電気鉄道岡崎線有松裏-新知立(仮)間9.2キロ(単線開通)有松変電所完成(4月) 桶狭間梅花処女会設立 有松の電話加入者数23件 山田周太郎半木製の手動式絞器を使う機械筋絞製法考案 |
1924 | 大正13 | 電話の区域改正で有松裏は有松局に編入(7月) 有松裏に鳴海尋常高等小学校東分教場開校(7月) 愛知電気鉄道岡崎線鳴海-有松裏間複線化(10月) |
1925 | 大正14 | 桶狭間に私設の図書館完成 半田警察署大府巡査部長派出所有松を管轄(4月) 愛知電気鉄道岡崎線神宮前-東岡崎間の電圧600Vを1500Vに昇圧(6月) 有松松操処女会設立 第2回国勢調査で有松町人口2.131人 |
有松・桶狭間の歴史年表(明治)
1868 | 明治 元 | 9月に明治に年号が改められるまでは慶応4年 鳴海陣屋(代官蔦木勝太郎)廃止名古屋藩南部総管所(知多郡横須賀村)管轄になる(8月) 有松絞の特権消滅 この頃 有松絞熱田港から積み出し 有松の消防組織でき消防組と称する |
1869 | 明治 2 | 藩籍奉還(7月) 竹田林三郎総紺白技絞考案 |
1871 | 明治 4 | 廃藩置県により名古屋県横須賀出張所の所轄となる(7月) 名古屋県愛知郡出張所の所轄となる(9月) 名古屋藩を名古屋県と改称(7月) 愛知郡は名古屋県第二大区に知多郡は額田県第一大区となる |
1872 | 明治 5 | 庄屋・名主及び年寄りを廃し戸長設置(4月) 学制頒布(8月) 徴兵令制定(12月) 名古屋県が愛知県と改称(4月) 愛知県に額田県を合併(11月) 愛知県区画章程を作り六大区九十小区にわけ有松村と桶狭間村は第七大区一小区となる 戸籍調査行われる |
1873 | 明治 6 | 有松の「神功皇后車」できる 『元作組地券証仕出帳』書かれる この頃 桶狭間に共和村長草小学校分教場開く |
1874 | 明治 7 | 有松橋東南66に第19番小学有明学校が創立(7月) 再び戸籍調査実施(7月) |
1875 | 明治 8 | 郵便役所を郵便局と改称(1月) 有松が天保時代製作された「唐子山車」購入 桶狭間村は農家78戸・医者1戸・大工1戸・旅籠屋1戸・人口383人 |
1876 | 明治 9 | 厳密な調査で完全な戸籍簿完成(8月) 鈴木金蔵が機械を応用した新筋絞を発明 桶狭間村が共和村と合併 大小九制廃止で愛知郡は第二区、知多郡は第七区と第八区(大高と有松は第七区)となる 有松の山口正義が「鷺之森碑」と「今川治部大輔義元墓」を建てる |
1877 | 明治10 | 桶狭間村内の稲荷社、愛宕社、秋葉社などの社を神明社境内に併合する 東京上野で開催の第1回内国博覧会に藍染木綿絞を出品 有松で川村屋絞卸商始める(3月) 鈴木金蔵機械応用の新筋絞発明 |
1878 | 明治11 | 鈴木金蔵中心となり「新製社」設立(11月) 地方制度改正で郡区が置かれ知多郡有松村できる(12月) 知多郡桶迫間村と知多郡大府町の一部が合併し共和村ができる(12月) 桶迫間・桶廻間などの呼び名を桶狭間に統一 竹田林三郎が養老簀絞発明 鈴木金蔵見雪絞・玉蔭絞・雪花絞等考案 |
1879 | 明治12 | 竹田庄九郎宅の建物を大高春江院の書院に移築(9月) 組織機構改革で名古屋警察署鳴海分所が熱田警察署鳴海分所となり有松を管轄し桶狭間は半田警察署の管轄となる(11月) 有松村に村会でき有松村議会が議長久田伊左衛門副議長山口喜三郎戸長服部孫兵衛で祇園寺で開かれる |
1880 | 明治13 | 有松五等郵便役所有松往還南絞商山形屋に置かれ小塚助三郎取扱人となる(4月) 神社令の改正で有松の人達が正式に天満宮の氏子となる |
1881 | 明治14 | 桶狭間村と共和村が分 |
1882 | 明治15 | 戦国時代から使われた知多街道黒末の渡し廃止 清心庵造営 |
1886 | 明治19 | 桶狭間村の御料地に部分林が設定され民間の資本で造林した利益を国と民間で分ける |
1887 | 明治20 | 有松学校が尋常小学有松学校と改称(4月) 暴風雨による被害出る(10月) 有松「布袋車山車」購入 有松で久田千次郎絞商始める |
1888 | 明治21 | 有松と桶狭間の合併問題紛糾する |
1889 | 明治22 | 岐阜地震でゆれる(5月) 桶狭間村と共和村が再び合併(10月) この頃 桶狭間村財政苦しくなり相羽家から2.000円の公債寄付を受ける他全村民による頼母子報徳講を作り運営 街道商売が衰退 |
1890 | 明治23 | パリの万国博覧会に有松綿布絞り出品 有松裏分割(鳴海から分離し有松に合併)問題が起きる 慈雲寺創建 |
1891 | 明治24 | 濃尾地震で有松に全壊の家屋が出たほか井戸水が1-2㍍以上増水溢れる(9月) 名古屋の玉屋町から布袋車山車を有松が購入 有松小学校橋東南66に校舎新築し移転(9月) 竹田林三郎が地白紺絞模様押捺(紺吹)を発明 有松臨時村会桶狭間との合併を満場一致で賛成 |
1892 | 明治25 | 愛知県西部地震で被害(1月) 桶狭間で棚橋源吾私立小学校設置願知多郡長に提出(2月) 私立桶狭間小学校が長草小学校桶狭間分教場を借用して開校 有松村が町制施行で有松町となる(9月) 有松町の初代町長に久田伊左衛門就任(10月) 晴心庵が相羽山慈雲寺と改称(12月) 桶狭間に青年会が出来て夜学開く |
1893 | 明治26 | 暴風雨により被害(8月) 有松町・共和村・桶狭間村の三者連名で町村組換願書提出される(5月) 有松町に共和村桶狭間合併、戸数457戸、人口1.730人(12月) 相羽山慈雲寺本堂の建設始まる 私立桶狭間小学校が有松小学校分校桶狭間小学校となる |
1894 | 明治27 | 愛知県北部地震で揺れる(1月) 知多郡商業会議所設立(1月) 尋常小学有松学校が有松尋常高等小学校と改称し高等科併設される(3月) 知多郡木綿晒業組合設立(4月) 知多郡農会設立(10月) 有松町戸数460戸、人口2.080人(絞商24戸、紺屋26戸、絞括請負業30戸、絞職230戸、農業100戸、雑業5戸) この頃 鳴海で有松裏の有松合併に反対するため、有志で共同会と呼ぶ頼母子講を作る |
1895 | 明治28 | 慈雲寺の本堂が総工費9万余円で完成(9月) 井桁一が絞製造卸売を始める(11月) 鈴木金蔵が日本錦と日本桜(嵐絞)の絞を発明 |
1896 | 明治29 | 有松五等郵便役所が有松郵便受取所と改称(7月) 桶狭間青年会解散 鈴木金蔵絞日本桜の特許出願専用権得る この頃、有松絞生産65万反 |
1897 | 明治30 | 桶狭間御料地開墾開始する 有松と大高で大根切干製造始まる 鈴木金蔵記功碑を祇園寺に建設し有松の絞組合も称賛の意を表して銀盃贈る 有松で永井米次郎米穀及び雑穀商い始める |
1898 | 明治31 | 愛知県北部地震でゆれ感じる(11月) 小塚助三郎らにより布帛絞成機発明 |
1899 | 明治32 | 有松絞商組合創立出願不許可で有松絞商工業組合として認可され設立する(12月) 有松絞商工業組合と名古屋国産絞同業組合との間に訴訟事件おき裁判は大審院に持ち込まれるが和解 |
1900 | 明治33 | 有松郵便受取所が有松三等郵便局改称(2月) 紀伊半島中部地震で大きくゆれる(3月) 知多郡酒造組合豊醸組設立(3月) パリ万国博覧会に綿布絞を出品 |
1901 | 明治34 | 桶狭間青年学友会が梶野孫作・梶野磯吉らが中心となり組織され再び夜学会開かれる(4月) 連合共進会に有松絞出品2等褒賞受賞(5月) 知多郡白木綿同業組合設立(7月) 知多郡味噌醤油同業組合設立(11月) 有松絞の意匠専用権和解協定成立 鳴海絞組合広産社が鳴海絞同業組合改称 名古屋国産絞組合が組合員43名で設立される 鈴木金蔵没する この頃 株式会社熱田銀行有松支店営業始める |
1902 | 明治35 | 亀山から大高・有松・鳴海間の通話料金各金拾五銭(4月) 真宗大谷派説教所神谷甚彦・木下惣兵衛・野村のゑら7名の願主で有松往還南に完成 この頃、有松に夜学会設立する |
1903 | 明治36 | 鳴海絞業者19名が名古屋国産絞同業組合に加入 有松・桶狭間から神宮西門前へ乗合馬車(始発午前6時から終発午後6時)乗車賃、有松-神宮10銭、桶狭間-神宮12銭 有松絞商工業組合と名古屋国産絞同業組合との間に再び訴訟事件起きる |
1904 | 明治37 | 聖路易萬国博覧会に絞出品(5月) 有松染工合資会社設立(12月) 有松物産株式会社染物及び絞太物製造販売開始(12月) 不景気で絞職工などに大量解雇者が出る |
1905 | 明治38 | 有松絞商工同業組合設立(2月) 有松の絞商共進組合が中心となり有松での電信早期創設運動を起こす(3月) 有松三等郵便局(郵便受取所)を有松郵便局と改称し山口喜三郎局長となる(4月) 有松裏分割問題再び起きる |
1906 | 明治39 | 有松郵便局電信事務を開始(7月) 凱旋記念五二共進会に有松絞出品名誉金牌受賞(11月) 桶狭間青年学友会が桶狭間青年親睦会と改称 供進使が町村長に決まり天満宮については有松と鳴海の両町長が祝詞奏上 石川久次郎両千鳥絞染・鈴木金蔵笹浪絞考案 竹田信吉「簀染」絞染色器発明すると共に彫染絞考案 |
1907 | 明治40 | 愛知県知多郡水産組合設立(3月) 第9回関西府県連合共進会に有松絞出品し1等賞金牌受賞する(5月) 知多郡産牛組合設立(9月) 有松町立商業補習学校が小学校に併設設立(10月) 愛知県絞同業組合連合会設立 手回し蜘蛛絞器考案される 染色講習所有松に設置 有松で河村商店絞加工請負を始める 有松で六鹿銀次郎絞太物商始める この頃 有松-鳴海間の馬車賃4銭 有松から大府への郡道(大府街道)大規模改修行 |
1908 | 明治41 | 第2回特許品展覧会に有松絞出品金牌受賞(5月) 長野県主催一府十県連合共進会に有松絞出品1等賞金牌と優等賞受賞(11月) 西尾源之助金蜘蛛絞発明 釣鹿子絞考案 桶狭間武路外七字の御料地拝借総代が開墾地図作る |
1909 | 明治42 | 鳴海・大高・有松の郵便局に電話機設置し電話呼び出し制度による通話開始(2月) 滋賀県姉川流域地震でゆれ感じる(8月) 福岡兼吉が機械による絞り「蜘蛛製法」発明 岡田松治郎が機械鹿の子製法を考案 桶狭間に出雲大社教愛知日出教会所設立 |
1910 | 明治43 | 第13回九州沖縄八県連合共進会に有松絞出品賞牌(毎日新聞社賞)受賞(5月) 日英博覧会で染物の部で絞が金・銀・銅賞受賞(5月) 愛知県主催第10回関西府県連合共進会に有松絞出品1等賞金牌受賞(6月) 有松に諸機械製造の合資会社森井鐡工場設立(7月) 有松郵便局に50回線磁石式単式交換機1台が設置され29加入で特設交換業務開始(9月) 有限責任知多郡信用購買組合聯合会設立(12月) 有松に共開染色合資会社できる(12月) 有松小学校桶狭間分校廃止で本校通学となる(4月) 名古屋鶴舞公園で開かれた共進会に絞浴衣と綿兵児帯出品 |
1911 | 明治44 | 滋賀県虎姫村地震でゆれる(2月) 愛知電気鉄道電気供給事業兼営許可(4月) 有松町名古屋瓦斯ガス供給区域となる(9月) 有松青年蛍雪会発足 愛知電気鉄道が名和・日長両変電所設置各町への送電線建設に着手(5月) この頃 岡田松次郎が機械鹿の子絞考案 |
有松・桶狭間の歴史年表(~江戸)
縄文時代 | - | 桶狭間に石鏃散布 |
589 | 崇竣 2 | 東海・東山・北陸の国境決まる |
645 | 大化 元 | 尾張宿祢忠命愛知郡郡司となる |
604 | 大化 2 | 改新の詔により国郡制が布かれ初めて尾張国に愛知・知多のほか八郡定まる |
701 | 大宝 元 | 暴風雨の被害でる |
703 | 大宝 3 | 多治比真人水守が尾張守となり尾張の国司になる |
715 | 和銅 8 | 三河地震で被害でる |
988 | 永延 2 | 尾張国郡司や百姓が国司藤原元命の非道を訴え |
1118 | 文治 元 | この頃 有松の三丁山、生山、幕山、愛宕西・東、神明裏、清水谷、深谷池、清水山、上ノ山、嵐廻間に登窯が築かれ山茶碗などを焼く |
1185 | 文治 元 | 東海道の新道について『尾参宝鑑』に記載 源頼朝は守護職置くが守護千葉氏は鎌倉に在住し守護代として小野成綱に職務代行させる |
1341 | 興国 2 | この頃 戦いに敗れた南朝の人々が桶狭間で生活する |
1515 | 永正12 | 今川義元の版図が三河から尾張に広がる |
1538 | 天文 7 | 長福寺創建する |
1560 | 永禄 3 | 桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を破る |
1575 | 天正 3 | 織田信長東海道の幅3間半に広げ植樹する奉行坂井文助・河野藤蔵・山口太郎兵衛・篠原八右衛門 |
1582 | 天正10 | 織田信雄尾張の領主になる |
1586 | 天正14 | 豊臣秀吉東海道を整備する |
1589 | 天正17 | この頃 鎌倉街道が古街道と呼ばれるようになる |
1590 | 天正18 | 豊臣秀次が近江八幡から尾張の領主になる |
1596 | 文禄 4 | 福島正則が清洲に封ぜられ尾張24万石を領す |
1600 | 慶長 5 | 松平忠吉が清洲に入り52万石を領する |
1601 | 慶長 6 | 東海道五十三次の宿場できる |
1604 | 慶長 9 | 有松に一里塚築かれる |
1605 | 慶長10 | 慶長大地震で被害でる |
1607 | 慶長12 | 徳川義直尾張の領主になる 朝鮮使節「回答兼刷還使」派遣始まり江戸へ向かう使節東海道を通る(往路4月・復路5月) 徳川義直尾張の領主となる |
1608 | 慶長13 | 尾張藩「知多郡の内 桶狭間村新町の儀 諸役御免許候間 望之者有之においては 彼地へ可被者也仍如件」の布告で有松へ移住を奨励(2月) 竹田庄九郎・長五郎・九左衛門・九兵衛・勘次・弥七・新助・治作が尾張藩の推奨で有松に移住 伊奈備前守忠次によって「備前検地」行われ、桶狭間に残る検地帳『慶長拾三戊申十月五日尾州智多郡桶廻間村御縄打水帳』に石高213石9斗7升5合で田畑26町7反16歩郷倉検地 免税と記録 この頃、桶狭間の村役人、彦左衛門、伝右衛門、又右衛門 |
1609 | 慶長14 | オランダ人参府始まり東海道を通る |
1610 | 慶長15 | 名古屋城築城始まり「豊後絞り」の技法伝わる 竹田庄九郎武則絞りを始め九九利染め考案 二代目竹田庄九郎直治生まれる 尾州藩の紺屋頭小坂井新右衛門が統制をして藍瓶役となる |
1613 | 慶長18 | 茶壷道中東海道通る(制度化前) 寅新田に津島社観請される 大阪の陣で東海道を徳川方の軍勢が通る この頃 有松へ7名が移住する |
1615 | 元和 元 | この頃、元和元年から寛永2年にかけて阿久比村から有松に17戸が移住する |
1616 | 元和 2 | 禁止された煙草の栽培と売買が農作物不作の桶狭間に特別に許される |
1624 | 寛永 元 | 朝鮮使節「回答兼刷還使」東海道を通る(11月) 寛永年間(1624-1643)木綿絞り普及する |
1625 | 寛永 2 | 朝鮮使節「回答兼刷還使」江戸の帰途東海道を通る(1月) 徳川義直桶狭間古戦場を遊覧し長福寺に立ち寄る 有松が桶狭間から独立する、戸数29戸、田畑2町7反1畝14歩 尾張藩は更に有松の屋敷地8反1歩を無税地として移住進める 竹田庄九郎鍛(しころ)絞りを考案する この頃、有松に兵左衛門・五郎右衛門ら14名が移住 |
1632 | 寛永 9 | 宇治から将軍に茶を献上する茶壺道中が制度化され東海道を通行する(道中は江戸末期まで続くがほかの事案がない年には掲載を省略) |
1633 | 寛永10 | 茶壺道中東海道通る オランダ人参府毎年となり東海道通る |
1634 | 寛永11 | 三代将軍家光上洛のため東海道を通る 茶壺道中東海道通る |
1636 | 寛永13 | 朝鮮回答兼刷還使は文化使節「朝鮮通信使」となり東海道を江戸に向かう(11月) 茶壺道中東海道通る |
1637 | 寛永14 | 朝鮮使節「朝鮮通信使」江戸の帰途東海道通る(1月) 茶壺道中東海道通る |
1638 | 寛永15 | 尾張の物産として綿と藍玉が『毛吹草』に記載 茶壺道中東海道通る |
1641 | 寛永18 | 尾張藩嫡子徳川光友に初入国の祝いに鍛絞手綱献上する 茶壺道中東海道通る この頃 東海道を通行する人が増加する |
1642 | 寛永19 | 茶壺道中東海道通る |
1643 | 寛永20 | 朝鮮使節「朝鮮通信使」東海道を江戸へ向かう(往路6月・復路8月) 茶壺道中東海道通る |
1644 | 正保 元 | 茶壺道中東海道通る この頃 三浦玄忠の妻が三浦絞の起源となる豊後絞りの技法伝える 絞商・紺屋・絞括り職人など分業が成立する |
1653 | 承応 2 | 琉球使節87人を松平大隈守が同道し東海道通る 茶壺道中東海道通る |
1655 | 明暦 元 | 朝鮮通信使東海道通る(9月・11月) 茶壺道中東海道通る |
1658 | 万治 元 | 三浦玄忠の妻「貴窓永尊禅定尼」没する 尾張藩主が徳川綱吉将軍就任祝いに絹布の有松絞の手綱に「九 九利染」と名付け贈る 茶壺道中東海道通る |
1660 | 万治 3 | 絞「紅染絞り」「紫染絞り」考案され需要増える 茶壺道中東海道通る 万治年間(1658-1650)紅染絞と紫染絞考案 この頃 浅井了意編で東海道筋の名所・寺社を紹介した『東海道名所記』刊行 |
1661 | 寛文 元 | 茶壺道中東海道通る この頃、桶狭間神明社の祭り始まる 寛文年間(1661-1672)長福寺火災で宝物焼失 有松 田1反2畝歩・畑2町5反8畝歩・家数31軒 |
1662 | 寛文 2 | 琵琶湖西岸地震で家屋・人畜に被害(5月) 竹田庄九郎武則没する 茶壺道中東海道通る |
1671 | 寛文11 | 尾張藩により『寛文村々覚書』の編纂進む 琉球使節85人東海道通る 茶壺道中東海道通る 桶狭間村家数18戸・人数193人・田畑23町9反7畝9歩の内畑3町8反弱 有松村は家数31戸・人数151人・田畑2町7反24歩 |
1677 | 延宝 5 | 布袋車山車を名古屋の玉屋町が若宮八幡宮祭車として造る 茶壺道中東海道通る |
1680 | 延宝 8 | 茶壺道中東海道通る この頃 大名絞と杢目絞及び蜘蛛段絞などの発明で急速に絞りが進歩する |
1681 | 天和 元 | 尾張藩主が将軍綱吉へ「九九利絞」の手綱献上する 茶壺道中東海道通る |
1682 | 天和 2 | 琉球使節94人東海道通る(8月・9月) 朝鮮通信使正使尹趾完副使李彦綱従事官朴慶俊ら362人東海道通る(8月・9月) 茶壺道中東海道通る |
1683 | 天和 3 | 『東海道中尽』刊行する 茶壺道中東海道通る |
1688 | 元禄 元 | 茶壺道中上りは東海道下りは中仙道通行となる 元禄年間(1688~1703)尾張四代藩主吉通が桶狭間神明社に参詣記念のスギ植える |
1689 | 元禄 2 | 尾張藩主有松絞業者居住地の租税を免除 絞り最盛期迎える 茶壺道中東海道通る |
1690 | 元禄 3 | 茶壺道中再び上り下り共東海道通行となる 菱川師宣画、遠近道印作で、街道沿いの一里塚、次宿までの距離、駄賃などを記した『東海道網目分間之図』作られる 茶壺道中東海道通る |
1691 | 元禄 4 | ケンペル『江戸参府紀行』『日本誌』の著者オランダ商館長の江戸参府に従い東海道通る 茶壺道中東海道通る |
1697 | 元禄10 | 二代目竹田庄九郎88歳で没する 茶壺道中東海道通る |
1701 | 元禄14 | 鳴海と有松の記載された尾州藩控図『尾張国絵図』作られる 長福寺中興開山善空南立上人没する 茶壺道中東海道通る |
1711 | 正徳 元 | 朝鮮通信使の正使趙泰億が東海道通る 茶壺道中東海道通る |
1714 | 正徳 4 | 琉球王使東海道通る 茶壺道中東海道通る |
1716 | 享保 元 | 尾張藩主継友知多郡を巡見する 茶壺道中東海道通る この頃、長福寺の惣門下郷弥兵衛の寄進で建つ |
1718 | 享保 3 | 琉球王使東海道通る 茶壺道中東海道通る |
1719 | 享保 4 | 朝鮮通信東海道を通行し警護のため橘田与左衛門が指揮する足軽23人が鉄炮10挺弓10張長柄10本火消道具で待機する(往路9月) 朝鮮通信使東海道通る(復路10月) 茶壺道中東海道通る |
1726 | 享保11 | 桶狭間午新田検地(高45石7斗3升8合) 茶壷道中東海道通る |
1729 | 享保14 | 長崎から江戸へ向かう将軍吉宗の注文した象が東海道通る 茶壺道中東海道通る この頃 有松村に絞染改会所でき、藩使が出張し絞染の尺巾を改め官印を押して冥加金を徴収 |
1743 | 寛保 3 | 有松村の田畑5町2反6畝24歩 茶壺道中東海道通る |
1745 | 延享 2 | 絞りについて『尾陽寛文記』に「有松村を通る絞りする家2軒から3軒」の記載 茶壺道中東海道通る |
1748 | 寛延 元 | 徳川家重将軍就任祝いの朝鮮信使東海道を通る(往路5月) 将軍就任祝い具志川皇子以下90人の琉球王使東海道通る 茶壺道中東海道通る |
1750 | 寛延 3 | 桶狭間の人口315人、戸数67戸 茶壺道中東海道通る |
1751 | 宝暦 元 | 桶狭間未新田検地(高17石5斗8升1合) 茶壺道中東海道通る 宝暦年間(1751-1763)有松で笹屋絞卸商始める 長福寺本堂改築 |
1752 | 宝暦 2 | 松平君山撰千村伯済校で『張州府志』発行 江府万屋清兵衛『東海道分間絵図』刊行 琉球王使東海道通る 茶壺道中東海道通る |
1753 | 宝暦 3 | 桶狭間神明社増築 茶壺道中東海道通る |
1755 | 宝暦 5 | 猿堂寺を祇園寺と改め呑舟透鱗が根古屋から有松に移し創建される(創建は苔巌が庵を建て疱瘡の呪いをしていた跡) 江戸萬屋清兵衛版『東海道分間図』に鳴海から有松への町並み描く 桶狭間亥新田検地(高9斗5升5合) 茶壺道中東海道通る |
1764 | 明和 元 | 朝鮮通信使東海道通る(往路2月・復路3月) 琉球王使東海道通る 茶壺道中東海道通る |
1768 | 明和 5 | 布袋車山車のからくりを文字書きのからくり人形にする 茶壺道中東海道通る |
1772 | 安永 元 | 鳴海村付近の絞商14名が「発明の元祖」鳴海以外の村での製造禁止を代官に訴える 茶壺道中東海道通る この頃、有松村に絞染支配所設置取締り行う |
1781 | 天明 元 | 絞染職分取締につき触書でる(12月) 有松について『知多郡有松村家並改帳』に惣棟239棟全て萱葺で唯一の瓦葺は祇園寺と記載 茶壺道中東海道通る この頃、高力猿候庵『東街便覧図略』に有松志ぼり店を紹介 |
1782 | 天明 2 | 鳴海村森下三十番地に鳴海陣屋設置される支配地は鳴海から大府・桶狭間・有松・半田・師崎・河和等69ヵ村で代官飯沼定右衛門250石(一般代官は30石) 有松の絞業者が営業独占権獲得 染絞職分取り締まりについての触書がでる 茶壺道中東海道通る |
1783 | 天明 3 | 信州浅間山噴火し尾張・三河ゆれる「猿猴庵日記」に掲載される(7月) 茶壺道中東海道通る |
1784 | 天明 4 | 大雨洪水で東海道も鳴海から知立付近まで海となる(8月) 有松村で大火災起こり全村焼失 茶壺道中東海道通る |
1786 | 天明 6 | 祇園寺秋葉堂建てる 茶壺道中東海道通る この頃、高力猿猴庵編・画で熱田から江戸まで記録の『東街便覧図略』刊行 |
1787 | 天明 7 | 樋口好古撰牧民忠告解『尾張國司農府之藏』藤屋吉兵衛出版 茶壺道中東海道通る |
1788 | 天明 8 | 内藤東甫著『張州雑志』発行 茶壺道中東海道通る |
1789 | 寛政 元 | 茶壺道中東海道通る 寛政年間(1789-1800)長福寺西国三十三観音建立 |
1790 | 寛政 2 | 井桁屋木綿絹布絞業始める 琉球王使東海道通る 茶壺道中東海道通る オランダ人参府東海道通る4年に1回となる |
1791 | 寛政 3 | 木綿統制令発布 茶壺道中東海道通る |
1792 | 寛政 4 | 樋口好古『尾張徇行記』発行 茶壺道中東海道通る |
1796 | 寛政 8 | 琉球王使東海道通る 茶壺道中東海道通る |
1798 | 寛政10 | 天満社が祇園寺境内から文章嶺に遷座 茶壺道中東海道通る |
1799 | 寛政11 | 有松の常夜燈建つ 有松に遊んだ本国司農、神野世献、文微甫が有松の盛況を『纐纈記』に書く 茶壺道中東海道通る |
1800 | 寛政12 | 有松村の町並み完全に復興する 茶壺道中東海道通る この頃 歌麿『絞りゆかた美人湯上りの図』描く |
1801 | 享和 元 | 天満社本殿前に常夜灯建つ 茶壺道中東海道通る |
1802 | 享和 2 | 尾張地震起こり被害でる(11月) 十返舎一九の『東海道中膝栗毛』発行 茶壺道中東海道通る |
1803 | 享和 3 | 葛飾北斎が『東海道五十三次』描く 茶壺道中東海道通る |
1804 | 文化 元 | 有松絞りの統制強化 茶壺道中東海道通る この頃 重信『有松絞り括りの図』描く 文化年間(1804-1817)絞会所を設置し有松21軒の株仲間で絞染業の独占支配する |
1806 | 文化 3 | 随筆集『鳴呼矣草』田中仲宣に絞描く 街道図『五海道其外分間見取延絵図』作られる 茶壺道中東海道通る |
1807 | 文化 4 | 有松・鳴海を紹介の須原屋版『東海木曽両道中懐宝図鑑』発行 茶壺道中東海道通る |
1808 | 文化 5 | 林海州美濃国大野郡伊尾村に生まれる(2月) 伊能忠敬ら四国と大和路測量の途中東海道通る(2月) 茶壺道中東海道通る |
1810 | 文化 7 | 文章嶺天満社に八棟造り神廟建つ 茶壺道中東海道通る 茶道利倉盛庸が日記『宇治茶御用道中図景』書く |
1811 | 文化 8 | 有松絞り統制違反紛争起き尾張藩が阿波国松平家を告訴 絞の村中職分取締りで絞販売は専有権を持つ有松以外では行わないように触書でる 朝鮮通信使東海道通行の最後 茶壺道中東海道通る |
1812 | 文化 9 | 竹田庄九郎藩主入国を祝い紺と紫のチリメン地1尺2寸の養老絞手綱を献上(12月) 茶壺道中東海道通る |
1813 | 文化10 | 碓氷重治鳴海陣屋代官となる(碓氷君徳政碑誓願寺に建つ) 茶壺道中東海道通る |
1816 | 文化13 | 桶狭間古戦場碑建つ 津田正生著『尾張国地名考』発行 茶壺道中東海道通る |
1818 | 文政 元 | 茶壺道中通行する 文政年間(1818-1829)長福寺薬師堂建つ |
1819 | 文政 2 | 琵琶湖東岸地震で土蔵などに被害 茶壺道中東海道通る |
1821 | 文政 4 | 茶壺道中東海道通る |
1822 | 文政 5 | 樋口好古が寛政4年~30年で『郡村徇行記』完成(5月) 須原屋茂兵衛から旅行ガイドプック『懐宝道中図鑑』刊行「有松もめんなるみしぼり名物也」と紹介 茶壺道中東海道通る |
1823 | 文政 6 | 絞販売は専有権を持つ有松以外では不可の触書でる 茶壺道中東海道通る |
1824 | 文政 7 | 天満社改築八棟造りの社殿完成(文章嶺天満宮神廟) 徳川吉通が参拝記念に植えた桶狭間神明社の杉が暴風で倒れ神木として保存 ペルシヤからのラクダ東海道通る 茶壺道中東海道通行る |
1826 | 文政 9 | シーボルトオランダ人参府の正使に随行し東海道通る 須原屋茂兵衛『懐宝道中図鑑』再刊行 茶壺道中東海道通る |
1827 | 文政10 | 茶壺道中東海道通る |
1828 | 文政11 | 祇園寺に仏足跡と豪潮筆による仏足跡歌碑建つ 茶壺道中東海道通る |
1830 | 天保 元 | 有松で東竹屋絞製造請負業始める 茶壺道中東海道通る この頃 桶狭間で梶野清左衛門寺子屋開く 天保年間(1830-1844)唐子車山車を内海の豪商造らせる |
1831 | 天保 2 | 茶壺道中東海道通る |
1832 | 天保 3 | 薩州家臣宰領し琉球王使東海道通る 初代広重東海道五十三次『鳴海』(保永堂版)描く 茶壺道中東海道通る |
1833 | 天保 4 | 美濃地震でゆれる(4月) 有松祭り警固衣装の羽織と半纏を30両で新調する 茶壺道中東海道通る 桶狭間に追剥が出るが風呂敷包み取り返し被害無し この頃 桶狭間神明社の祭りに傘鉾などのほか神馬・奉納馬(馬之頭)がでる |
1834 | 天保 5 | 絞の販売は店での商いに止める事など規約を定めた「絞染職取締定箇条書」でる(6月) 絞染職株定之事「絞染職株定書」有松絞株仲間組織強化され絞製品統制の手段として生地に改印「尾州有松絞り支配所」の朱印押す(7月) 鳴海代官支配は愛知郡と知多郡の東及び三河国加茂郡寺部村周辺の102カ村 茶壺道中東海道通る |
1835 | 天保 6 | 天満社祭りについて『村方祭礼取締方之儀』に「祭禮之儀者何事茂諸事中老衆之指図ニ任セ取持可致候事」と記載 茶壺道中東海道通る |
1837 | 天保 8 | 鈴木金蔵小字金太郎生まれる(7月) 茶壺道中東海道通る この頃 国芳『東海道五拾三駅五宿名所図』描く |
1838 | 天保 9 | 尾張藩『尾張国絵図』(重要文化財)作成する 茶壺道中東海道通る |
1841 | 天保12 | 絵図『知多郡込高新田絵図』『桶廻間図面』『知多郡有松村絵図』作られる 祇園寺の三十三観音堂が建つ 岡田啓・野口道直撰小田切春江画『尾張名所図会』完成 茶壺道中東海道通る この頃 有松村は絞商19軒の他、茶屋19軒、雑貨屋20軒が街道に並ぶ |
1842 | 天保13 | 琉球王使東海道通る 茶壺道中東海道通る この頃 天保改革の倹約令で有松絞り衰微する |
1843 | 天保14 | 紀伊大納言江戸参府で東海道通る 長崎奉行与力囚人を江戸町奉行所に連行するため東海道通る 茶壺道中東海道通る この頃 初代広重『名物有松絞り店の図』刊行 筋違橋北東に家並み描かれた「知多郡有松村絵図」作られる |
1844 | 弘化 元 | 小田切春江画『尾張名所図会』刊行 茶壺道中東海道通る この頃 行書東海道『鳴海』初代広重刊行 |
1845 | 弘化 2 | 祇園寺金比羅堂建つ(3月) 絞の販売は店での商いに止める事など規約を定めた「絞染職取 締定箇条書」でる(5月) 茶壺道中東海道通る |
1846 | 弘化 3 | 桶狭間の地図完成する 藩命で深田香実撰『尾張志』完成する 茶壺道中東海道通る |
1847 | 弘化 4 | 茶壺道中東海道通る この頃 三代豊国『東海道五十三対絞り括くりの図』描く |
1848 | 嘉永 元 | 茶壺道中東海道通る |
1849 | 嘉永 2 | 祇園寺に寺子屋開設(明治15年廃止) 長福寺に遠州二俣城主松井宗信の木像寄進 茶壺道中東海道通る |
1850 | 嘉永 3 | 琉球王使東海道通る(正使豊見城王子) 茶壺道中東海道通る この頃 広重『有松里名物絞店』刊行 模様集『洗張浮世模様』岩瀬京伝に当時流行した花染絞など紹介 |
1851 | 嘉永 4 | 茶壺道中控『公儀御茶壺一巻留』に茶壺御附添衆進物に奈留美絞と記載 加島英国著『東日記』に鳴海・有松の名物「絞り染め」紹介 茶壺道中東海道通る |
1852 | 嘉永 5 | 広重『旅人の名産有松絞り括くりを見る図』刊行 茶壺道中東海道通る |
1853 | 嘉永 6 | 絞の販売は店での商いに止める事など規約を定めた「絞染職取締定箇条書」でる(12月) 鈴木金蔵14歳で養老影絞りを発明 茶壺道中東海道通る |
1854 | 安政 元 | 伊賀盆地地震でゆれる(6月) 東海道沖遠州灘地震と翌日南海道沖地震で被害でる(11月) 茶壺道中東海道通る |
1855 | 安政 2 | 桶狭間の医師宅で療養していた定次郎が鳴海宿で暴れ脇差で4人を死なせる 茶壺道中東海道を通る この頃 五十三次名所図絵『鳴海』初代歌川広重刊行 広重『名産有松志ぼり店の図』刊行 |
1856 | 安政 3 | 尾張藩は軍費として14ヵ村に27.600両の提出を命じる 有松村の絞取締一統から鳴海代官所に絞販売は専有権を持つ有松以外で行わないよう取締の願書でる 茶壺道中東海道通る |
1857 | 安政 4 | 豪雨で鳴海村代官支配地区で29か所が水難に遭う(7月) 茶壺道中東海道を通る |
1859 | 安政 6 | 八人の紺屋惣代連名で絞の値引きをしないよう会所に申し入れ 鳴海陣屋の代官山田貫一郎努める 茶壺道中東海道通る |
1860 | 万延 元 | 鳴海陣屋が清水寺丹下砦跡に移り知多半島迄の106ヵ村を支配する 台風で桶狭間神明社の徳川吉通手植えのスギ枯れる 茶壺道中東海道通る |
1861 | 文久 元 | 皇女和宮の婚礼道具東海道通る(10月) 尾張藩の御産物絞となり絞製品統制の改印が「尾州有松絞御用会所」の朱印に改める 有松村の二人が京・大阪方面に出奔、絞を教えていたため連れ戻す 茶壺道中東海道通る 文久年間(1861-1863)桶狭間に御嶽講社発足梶野覚清が先達となり御嶽山に登山する |
1862 | 文久 2 | 有松家並み『御上洛御用ニ付御改書上記録』書かれる往還並家113軒(商家43軒、農家70軒)惣家190軒 茶壺道中東海道通る |
1863 | 文久 3 | 将軍徳川家茂上洛の途中竹田庄九郎宅で休息する 徳川慶勝が上洛の将軍家茂を出迎え 鈴木金蔵精米機発明 一橋斎艶長『東海道名所内・桶狭間』錦絵刊行 二代広重画で『十四代将軍家茂上洛有松通行の図』刊行 茶壺道中東海道通る この頃 有松村御産物絞取締役から鳴海陣屋に絞染紺屋取締の願書出される |
1865 | 慶応 元 | 14代将軍家茂長州征伐に際し有松家並調査『御進発之節御成方々御泊可相成家並調査図面』作られる 長州征伐の途中に将軍家茂が竹田家で休息 茶壺道中東海道通る |
1866 | 慶応 2 | 長福寺に寺子屋開かれる 尾張藩が名古屋商人の絞製造を認め絞り独占体制が崩壊 国周『末広五十三次絞り括くりの図』発行 茶壺道中東海道通る |
1867 | 慶応 3 | 英国外交官のアーネスト・サトウ鳴海と有松を通り絞りを購入 有松の絞り技術を服部興右衛門が木綿商人を装って習得し名古屋へ持ち出す |
おわりに
子供たちに歴史を伝えたいと「みどり小さな歴史資料館」を開いています。
これまで資料を集めてきましたが、ひもとくたびに次々に新しい発見があり、まとめる機会を見つけることができませんでした。
2008(平成20)年に有松が開村400年を迎えることで思い切ってみることにしました。
有松・桶狭間を探訪して、歴史遺産や町の様子を「有松・桶狭間の歴史をたづねて」として簡単にまとめたほか、歴史を「有松町史」「有松志ぼり」など約1000冊の本、資料や文献から探して年表にしました。
縄文時代から2007(平成19)年までを掲載しています。
有松・桶狭間にこんなにも様々な出来事が起きていたことが分かります。
これからももっと多くの歴史を掘り起こし、充実した年表にしていきたいと思っています。
制作するに当たり広瀬将人さん、白柳大仁さんに多大なるご指導と協力をいただきました。
題字は書道作家の一ノ瀬芳翠さんにお願いしました。
心より感謝して御礼を申しあげます。
2008(平成20)年1月1日
淡河俊之
これまで資料を集めてきましたが、ひもとくたびに次々に新しい発見があり、まとめる機会を見つけることができませんでした。
2008(平成20)年に有松が開村400年を迎えることで思い切ってみることにしました。
有松・桶狭間を探訪して、歴史遺産や町の様子を「有松・桶狭間の歴史をたづねて」として簡単にまとめたほか、歴史を「有松町史」「有松志ぼり」など約1000冊の本、資料や文献から探して年表にしました。
縄文時代から2007(平成19)年までを掲載しています。
有松・桶狭間にこんなにも様々な出来事が起きていたことが分かります。
これからももっと多くの歴史を掘り起こし、充実した年表にしていきたいと思っています。
制作するに当たり広瀬将人さん、白柳大仁さんに多大なるご指導と協力をいただきました。
題字は書道作家の一ノ瀬芳翠さんにお願いしました。
心より感謝して御礼を申しあげます。
2008(平成20)年1月1日
淡河俊之
市文化財の建物
小塚家住宅(平成10年指定)
主屋1棟、表倉1棟、南倉1棟。天明の火災のあとすぐに建築され重厚広壮で有松の絞問屋の形態をよくとどめている。主屋の1階は格子窓、2階は塗篭壁、隣家との境に卯建があり、塗篭造のうちもっとも古いもののひとつ。有松らしい家並みの景観上からも貴重な建物となっている。軒下の柱には駒止がある。小塚家は屋号を山形屋として明治期まで絞問屋を営んでいた。
岡家住宅(昭和62年指定)
主屋1棟、作業場1棟、東倉1棟、西倉1棟。江戸時代末期の重厚な有松の絞問屋の建築形態で錦絵に描かれている。主屋は旧状をよく残し、2階窓の優美な縦格子をもち、有松における代表的な美しい外観を備えた塗篭造の建物である。また勝手の釜場の壁も防火上塗篭であり、このような形式で絞商丸屋丈助の名で錦絵に描かれた。現存する唯一の例で意匠的にも優れている。
主屋1棟、表倉1棟、南倉1棟。天明の火災のあとすぐに建築され重厚広壮で有松の絞問屋の形態をよくとどめている。主屋の1階は格子窓、2階は塗篭壁、隣家との境に卯建があり、塗篭造のうちもっとも古いもののひとつ。有松らしい家並みの景観上からも貴重な建物となっている。軒下の柱には駒止がある。小塚家は屋号を山形屋として明治期まで絞問屋を営んでいた。
岡家住宅(昭和62年指定)
主屋1棟、作業場1棟、東倉1棟、西倉1棟。江戸時代末期の重厚な有松の絞問屋の建築形態で錦絵に描かれている。主屋は旧状をよく残し、2階窓の優美な縦格子をもち、有松における代表的な美しい外観を備えた塗篭造の建物である。また勝手の釜場の壁も防火上塗篭であり、このような形式で絞商丸屋丈助の名で錦絵に描かれた。現存する唯一の例で意匠的にも優れている。
有松の絞と町並みを訪ねて
優美な中にも渋い味わいと精緻な技法で知られる「国の伝統的工芸品産業」に指定された絞りは長い歴史を持ち、静かな町並みの中に今も脈々と生き続けている。のれんが風に揺れる絞りの店、店の格子戸が開き、編笠に袴の武士が、島田姿の美人が……。振り返ると、街道には荷を振り分けにした旅人……。そんな江戸時代の装いの人に出会っても違和感を覚えないだろう。洋服姿の方がよそよそしく感じられ、とても名古屋市の一角とは思えない風景が広がる有松の町並み。
「有松・鳴海絞」のふるさと有松は名古屋の中心から東南に向かって車で1時間足らず。電車なら新名古屋駅から名鉄急行の鳴海駅で普通に乗りかえて約40分。駅を南へ歩くとすぐ交差するのが、京と江戸(東京)を結ぶ旧東海道。旅人のため五十三次の宿場が設けられていた。名古屋から江戸へは鳴海宿の次ぎが地鯉鮒(知立)宿。宿と宿の間は人家もなく、細い街道が松林の中を蛇行しながら伸びている寂しい土地。古くは昼間からタヌキやキツネのほか、強盗、追いはぎが出没し、旅人を困らせたといわれている。
尾張藩は旅人の安全と休息場所の必要から、新しい合宿(宿泊設備を持たない道中の足を休める場所)有松を造った。有松という名は付近に松が多かったところから付いたとする説と、「新町」が有松に転じたとする説がある。
今から400年前の1608(慶長13)年、免租地の特権とともに夫役を免ずる条件で、近くの村々に有松への移住を呼びかけた。最初に移住したのは、庄九郎、長五郎、九左衛門、九兵衛、勘次、弥七、親助、治郎作の8人と家族。知多郡英比庄(阿久比)の人たちで、土地が狭いうえ米つくりなどできない荒地で生活は苦しかった。庄九郎らが副業として始めた絞り染めが旅人にもてはやされ、徳川五代将軍綱吉の将軍就任を祝い、絞りの馬の手綱を献上したころからその名が全国に広まり、絞りの町として発展してきた。
浮世絵師・安藤広重らが描く版画に数多く登場する町並みは有染橋から東町、中町、西町を経て祇園寺まで約800メートル続く。建物は江戸時代に造られたものも多く、歴史的価値は高い。1984(昭和59)年には名古屋市で最初の「名古屋市町並み保存地区」に指定された。
町を歩くとしっとりとしたたたずまいの中に、美しい連子格子が幾何学模様を描く。広々とした家々は絞り問屋として特別な造り。1784(天明4)年の大火で全村が消失。「田舎に京の有松」とうたわれた、美しい町並みも一時、絶滅の危機にひんしたが、苦い経験を生かし、屋根は瓦で端を高く隣家の火を防ぐ卯建がある。柱は壁で囲う塗籠造、虫篭窓とするなど防火対策を随所に施し、寛政年間(1789~1801)には完全に復興している。尾張藩の援助もあったが、絞りの富の力が大きかった。
町並みの東に背の高い「有松山車会館」がある。1988(昭和63)年に文化財の山車を常設展示するために建てられた。館内には有松の3台の山車のうち1台が交互に展示され、豪華な水引や幕で飾り、祭り囃子の音が流れる中で解説を聞きながらゆっくり見学できる。
有松小学校跡には「有松・鳴海絞会館」が建ち、絞りの歴史などが展示されている。研修室では絞りの講習会も開かれる。2階展示室入り口でお年寄りが「三浦絞」「巻上絞」など絞りの実演をし、手際よい作業を訪れた人が感心しながら見入り熱心に質問している。近くには「竹田庄九郎翁徳併有松絞由来書碑」がどっしり建つ。碑の前にある高札には「庄九郎絞りを創めたという。その後、豊後の医師三浦玄忠夫人が指導、三浦絞りが創出されてから一大進歩した」とあった。
町並みを進むと愛知県文化財に指定された服部孫兵衛(井桁屋)、卯建のある主屋のほか、店舗、藍蔵、みそ蔵、門、長屋などを残す近世町屋建築の代表的な建物。中でも白壁の土蔵と都市景観保存樹に指定されたクロガネモチがひときわ浮き立つ。
街道を一筋中の通りへ入ると、染めた絞りを屋上に干す人、下絵刷りをする職人、糸くくりに忙しい女性、訪問着を縫うお年寄りなどが目に入る。絞りは大きく分けて七つの工程がある。図案選び、型紙取り、下絵刷り、加工、染色、糸抜き、仕上げ、これらの仕事はすべて分業で、一反の絞りに多くの人が携わる。技法は縫い絞り、筋絞り、蜘蛛絞り、三浦絞り、鹿の子絞り、嵐絞りなど百種類ほどに分かれる。今も絞られているのはそのうち約30種類で、すでに忘れられてしまつた絞りも多い。一反に絞る粒数は5万から20万。それだけに絞り加工と染色後の糸抜き作業は大変で、3日から4日を要するものもある。
町並みのほぼ中央に名古屋市指定文化財の竹田嘉兵衛商店。主屋、店舗、蔵などすべて黒く塗られて風格が感じられる。2階は壁、窓とともに漆喰仕上げの塗籠。玄関は格子戸の内側に大戸。これをくぐって中に入ると広々とした土間。長い廊下を通ると、大名らとの商談に使われた25畳の座敷。床の間と10畳の控えの間付きだ。大名は専用口からこの座敷に通った。庭は手入れが行き届き、配置された灯籠や石に、深い木々の緑が美しく調和する姿は閑雅の趣がある。座敷や蔵では静かな日本庭園を眺めながらのコンサートも開かれ、好評だ。庭の一角には東隣の開祖庄九郎屋敷跡から移した庄九郎宅跡の石碑。奥には茶室「裁松庵」。
有松は早くから歴史的町並み保存に力を入れ、1973(昭和48)年には町の有志が「有松まちづくりの会」を結成した。会では、愛知県で初めての国の『重要伝統的建造物群』保存地区に選定を受ける取り組みを進めており、街道沿いの電柱をなくして石畳にし、江戸時代の有松の街並みを再現するのが夢。
市指定文化財の絞り問屋の岡家住宅、小塚家住宅が並ぶ町並みを見ながら歩くと右手に1755(宝暦5)年に鳴海から移った祇園寺。有松絞り発展に尽くした竹田庄九郎、鈴木金蔵らをまつる。境内には1828(文政11)年に建てられた吉祥文のない珍しい仏足石と仏足石歌碑がある。寺の前には3メートルほどの松。江戸時代名残の松が枯れたため、「二代目の松」として植えられた。松の前を折れ、踏み切りを渡ると、文章嶺と呼ぶ小高い山。1798(寛政10)年に祇園寺境内から遷座された天満社。1810(文化7)年には絞商らの多額の寄進で八棟造の社殿が完成した。天満社の祭りでは3台の山車、東町の「布袋車」、中町の「唐子車」、西町の「神功皇后車」が、そろいの絞半纏を着た男衆らによって曳かれ祭りを盛り上げる。
《みどころ》「服部家住宅」(県指定文化財)。「竹田家住宅」「小塚家住宅」「岡家住宅」(市指定文化財)の文化財。「有松山車会館」「有松・鳴海絞会館」など。
《あし》新名古屋から名古屋鉄道名古屋本線「有松」下車。
《まつり》「有松祭り」(天満社祭礼)10月の第1日曜日で「布袋車」「唐子車」「神功皇后車」の3輌の山車が曳き回される。「絞りまつり」6月の第1土・日曜日にも山車が展示され、絞りをメインテーマにした催しが開かれる。
「有松・鳴海絞」のふるさと有松は名古屋の中心から東南に向かって車で1時間足らず。電車なら新名古屋駅から名鉄急行の鳴海駅で普通に乗りかえて約40分。駅を南へ歩くとすぐ交差するのが、京と江戸(東京)を結ぶ旧東海道。旅人のため五十三次の宿場が設けられていた。名古屋から江戸へは鳴海宿の次ぎが地鯉鮒(知立)宿。宿と宿の間は人家もなく、細い街道が松林の中を蛇行しながら伸びている寂しい土地。古くは昼間からタヌキやキツネのほか、強盗、追いはぎが出没し、旅人を困らせたといわれている。
尾張藩は旅人の安全と休息場所の必要から、新しい合宿(宿泊設備を持たない道中の足を休める場所)有松を造った。有松という名は付近に松が多かったところから付いたとする説と、「新町」が有松に転じたとする説がある。
今から400年前の1608(慶長13)年、免租地の特権とともに夫役を免ずる条件で、近くの村々に有松への移住を呼びかけた。最初に移住したのは、庄九郎、長五郎、九左衛門、九兵衛、勘次、弥七、親助、治郎作の8人と家族。知多郡英比庄(阿久比)の人たちで、土地が狭いうえ米つくりなどできない荒地で生活は苦しかった。庄九郎らが副業として始めた絞り染めが旅人にもてはやされ、徳川五代将軍綱吉の将軍就任を祝い、絞りの馬の手綱を献上したころからその名が全国に広まり、絞りの町として発展してきた。
浮世絵師・安藤広重らが描く版画に数多く登場する町並みは有染橋から東町、中町、西町を経て祇園寺まで約800メートル続く。建物は江戸時代に造られたものも多く、歴史的価値は高い。1984(昭和59)年には名古屋市で最初の「名古屋市町並み保存地区」に指定された。
町を歩くとしっとりとしたたたずまいの中に、美しい連子格子が幾何学模様を描く。広々とした家々は絞り問屋として特別な造り。1784(天明4)年の大火で全村が消失。「田舎に京の有松」とうたわれた、美しい町並みも一時、絶滅の危機にひんしたが、苦い経験を生かし、屋根は瓦で端を高く隣家の火を防ぐ卯建がある。柱は壁で囲う塗籠造、虫篭窓とするなど防火対策を随所に施し、寛政年間(1789~1801)には完全に復興している。尾張藩の援助もあったが、絞りの富の力が大きかった。
町並みの東に背の高い「有松山車会館」がある。1988(昭和63)年に文化財の山車を常設展示するために建てられた。館内には有松の3台の山車のうち1台が交互に展示され、豪華な水引や幕で飾り、祭り囃子の音が流れる中で解説を聞きながらゆっくり見学できる。
有松小学校跡には「有松・鳴海絞会館」が建ち、絞りの歴史などが展示されている。研修室では絞りの講習会も開かれる。2階展示室入り口でお年寄りが「三浦絞」「巻上絞」など絞りの実演をし、手際よい作業を訪れた人が感心しながら見入り熱心に質問している。近くには「竹田庄九郎翁徳併有松絞由来書碑」がどっしり建つ。碑の前にある高札には「庄九郎絞りを創めたという。その後、豊後の医師三浦玄忠夫人が指導、三浦絞りが創出されてから一大進歩した」とあった。
町並みを進むと愛知県文化財に指定された服部孫兵衛(井桁屋)、卯建のある主屋のほか、店舗、藍蔵、みそ蔵、門、長屋などを残す近世町屋建築の代表的な建物。中でも白壁の土蔵と都市景観保存樹に指定されたクロガネモチがひときわ浮き立つ。
街道を一筋中の通りへ入ると、染めた絞りを屋上に干す人、下絵刷りをする職人、糸くくりに忙しい女性、訪問着を縫うお年寄りなどが目に入る。絞りは大きく分けて七つの工程がある。図案選び、型紙取り、下絵刷り、加工、染色、糸抜き、仕上げ、これらの仕事はすべて分業で、一反の絞りに多くの人が携わる。技法は縫い絞り、筋絞り、蜘蛛絞り、三浦絞り、鹿の子絞り、嵐絞りなど百種類ほどに分かれる。今も絞られているのはそのうち約30種類で、すでに忘れられてしまつた絞りも多い。一反に絞る粒数は5万から20万。それだけに絞り加工と染色後の糸抜き作業は大変で、3日から4日を要するものもある。
町並みのほぼ中央に名古屋市指定文化財の竹田嘉兵衛商店。主屋、店舗、蔵などすべて黒く塗られて風格が感じられる。2階は壁、窓とともに漆喰仕上げの塗籠。玄関は格子戸の内側に大戸。これをくぐって中に入ると広々とした土間。長い廊下を通ると、大名らとの商談に使われた25畳の座敷。床の間と10畳の控えの間付きだ。大名は専用口からこの座敷に通った。庭は手入れが行き届き、配置された灯籠や石に、深い木々の緑が美しく調和する姿は閑雅の趣がある。座敷や蔵では静かな日本庭園を眺めながらのコンサートも開かれ、好評だ。庭の一角には東隣の開祖庄九郎屋敷跡から移した庄九郎宅跡の石碑。奥には茶室「裁松庵」。
有松は早くから歴史的町並み保存に力を入れ、1973(昭和48)年には町の有志が「有松まちづくりの会」を結成した。会では、愛知県で初めての国の『重要伝統的建造物群』保存地区に選定を受ける取り組みを進めており、街道沿いの電柱をなくして石畳にし、江戸時代の有松の街並みを再現するのが夢。
市指定文化財の絞り問屋の岡家住宅、小塚家住宅が並ぶ町並みを見ながら歩くと右手に1755(宝暦5)年に鳴海から移った祇園寺。有松絞り発展に尽くした竹田庄九郎、鈴木金蔵らをまつる。境内には1828(文政11)年に建てられた吉祥文のない珍しい仏足石と仏足石歌碑がある。寺の前には3メートルほどの松。江戸時代名残の松が枯れたため、「二代目の松」として植えられた。松の前を折れ、踏み切りを渡ると、文章嶺と呼ぶ小高い山。1798(寛政10)年に祇園寺境内から遷座された天満社。1810(文化7)年には絞商らの多額の寄進で八棟造の社殿が完成した。天満社の祭りでは3台の山車、東町の「布袋車」、中町の「唐子車」、西町の「神功皇后車」が、そろいの絞半纏を着た男衆らによって曳かれ祭りを盛り上げる。
《みどころ》「服部家住宅」(県指定文化財)。「竹田家住宅」「小塚家住宅」「岡家住宅」(市指定文化財)の文化財。「有松山車会館」「有松・鳴海絞会館」など。
《あし》新名古屋から名古屋鉄道名古屋本線「有松」下車。
《まつり》「有松祭り」(天満社祭礼)10月の第1日曜日で「布袋車」「唐子車」「神功皇后車」の3輌の山車が曳き回される。「絞りまつり」6月の第1土・日曜日にも山車が展示され、絞りをメインテーマにした催しが開かれる。
桶狭間合戦の史跡
幕山
松井左衛門佐宗信が桶狭間の山に陣を置き、大高・鳴海方面を監視した跡。陣に幕を張りたてたことから名付けられた。
巻山
今川義元の本隊を指揮した井伊信濃守直盛が義元が田楽坪で休息中に、敵情を見張るため仮の陣を置いた跡で、織田信長勢に包囲されたことで巻山の名がついた。
七ツ塚
今川の戦死した将兵を七つの穴を掘っての埋葬したと伝えられ、里人は七ツ塚と呼び取り壊すと「たたり」があるとされた。区画整理事業で塚はなくなり一角に碑が建てられている。
窯ヶ谷
織田信長が善照寺砦から約2000の将兵とともに、暴風雨の中を休息する義元の本陣へ向けて駆け抜けた山間の細い道。名前が残るだけですでに当時をしのぶことはできない。
鞍流瀬川
窯ヶ谷を水源とし、旧刈谷街道に沿って流れる。戦いのあと血に染まった鞍がいくつも浮かんでいたことから、誰とはなく鞍流瀬川と呼ぶようになった。川から「桶狭間古戦場」文化13年と刻まれた標石がみつかっている。水源から長福寺の前まで区画整理で埋め立てられた。
松井左衛門佐宗信が桶狭間の山に陣を置き、大高・鳴海方面を監視した跡。陣に幕を張りたてたことから名付けられた。
巻山
今川義元の本隊を指揮した井伊信濃守直盛が義元が田楽坪で休息中に、敵情を見張るため仮の陣を置いた跡で、織田信長勢に包囲されたことで巻山の名がついた。
七ツ塚
今川の戦死した将兵を七つの穴を掘っての埋葬したと伝えられ、里人は七ツ塚と呼び取り壊すと「たたり」があるとされた。区画整理事業で塚はなくなり一角に碑が建てられている。
窯ヶ谷
織田信長が善照寺砦から約2000の将兵とともに、暴風雨の中を休息する義元の本陣へ向けて駆け抜けた山間の細い道。名前が残るだけですでに当時をしのぶことはできない。
鞍流瀬川
窯ヶ谷を水源とし、旧刈谷街道に沿って流れる。戦いのあと血に染まった鞍がいくつも浮かんでいたことから、誰とはなく鞍流瀬川と呼ぶようになった。川から「桶狭間古戦場」文化13年と刻まれた標石がみつかっている。水源から長福寺の前まで区画整理で埋め立てられた。
桶狭間古戦場を訪ねて
1560(永禄3)年5月19日の桶狭間の合戦では、2000人余りの手勢を率いた織田信長が、今川義元の大軍(約2万5000人)を破って天下統一へ大きな一歩を踏み出した。
地元では「桶狭間古戦場保存会」のほか、2004(平成16)年5月「桶狭間の戦いを学ぶ会」が設立され、メンバーがガイドを始めるなど観光客誘致の取り組みも活発化している。
名古屋市緑区の古戦場跡、義元の首検証をしたという長福寺などを訪ね、将兵たちが駆け抜けた時代に思いをはせた。
名鉄有松駅で電車を降り、バスに乗ってもよかったが歩く。古い町並みの続く旧東海道を左へ折れ、有松・鳴海絞会館、有松山車会館を過ぎて有松郵便局を右に曲がる。
国道1号を渡って30分ほど歩くと、幕山バス停が見えてくる。バスの人はここで降りる。
近くに、1988(昭和63)年の土地区画整理事業で整備された「桶狭間古戦場跡」(田楽坪)がある。
今川義元戦死の地については諸説あるが、豊明市南舘が1962(昭和37)年、戦死の場所として国史跡に指定された。しかし、2万人以上の将兵が入り乱れて戦った合戦でのことだ。歴史家の間で現在でも議論が続いている。
合戦の中心地だった桶狭間古戦場跡も、古くから義元が戦死した地と伝えられる。
公園内には、義元が沓掛城から大高城に進軍する途中で休息し、馬をつないだとされるネズの枯れた木がある。木の前には「今川義元公馬繋ぎの杜松塚」の碑が建ち、横に二つの石碑。一方には「今川義元公」と刻まれ、裏に「昭和8年」とある。もう一つには「駿公墓碣」と掘られている。さらに、義元がのどを潤した「今川義元公水汲みの泉」も。初夏になると義元が蛍となり、京都に向かって飛ぶとの伝説がある。
さらに進むと、瀬名陣所跡に出る。義元の家臣で先発隊を率いた瀬名伊予守氏俊が合戦の2日前、着陣した場所だ。氏俊はここで追分(大府市)、村木(東海市)、大高、鳴海方面を監視した。
古伝によると、陣所跡は東西8間、南北20間くらいの「トチの木林」だった。地盤が高く、しばらくは陣所の形態をとどめていたが竹やぶになつてしまった。村人は瀬名氏俊をしのんで「セナやぶ」「センノやぶ」と呼んでいたが、大池の堤防工事によってセナやぶも取り壊された。今は、竹がわずかに名残をとどめるのみ。
瀬名陣所跡から、1538(天文7)年の創建とされる長福寺に向かう。桶狭間の合戦に際し、住職が村人とともに酒とさかなで義元をもてなしたという。
勝敗が決したあと捕らえられた義元の家臣、林阿弥は、境内で義元はじめ武将の首検証をして許されたが、のちに義元や家臣の菩提を弔うため、長福寺に阿弥陀如来像を納めた。本堂には今川義元、松井宗信の木造が安置され、境内に首検証の碑、供養塔などがある。
長福寺門前の道路を隔てた反対側に、戦評の松がある。瀬名氏俊が大松の下に武将を集め、戦いの評議をしたという。
松の下には、5月19日の命日に、白装束で白馬にまたがった義元の亡霊が現れるとの言い伝えがある。また江戸時代、刈谷の魚屋が義元の亡霊に出会い、他言無用と固く口止めされたが、他人に漏らした途端熱病にかかり死んでしまったとの伝説もある。
戦評の松は「一本松」「大松」と呼ばれていたが、伊勢湾台風で枯れてしまい1962(昭和37)年に2代目が植樹された。この松も近年枯れてしまい、太い切株だけが名残をとどめている。
《みどころ》古戦場一帯には、織田軍が包囲した巻山、陣に幕を張った幕山、武者が通った武路狭間、戦死者を葬った七ツ塚、馬の鞍が浮かんでいた鞍流瀬川などの史跡がある。ほかに「神明社」「慈雲寺」「庚申堂」など。
《メモ》名古屋市緑区役所地域振興課(電話052・621・2111)で緑区散策マップ「桶狭間古戦場コース」が入手できる。古戦場案内の申し込みは「桶狭間の戦いを学ぶ会」へ。
《まつり》桶狭間古戦場まつり(5月19日に近い日曜日)長福寺、戦評の松などで慰霊祭や万燈会などがある。桶狭間神明社大祭(10月の第2日曜)には南、北、中の三つの町から傘鉾、音頭台、神輿が出る。境内では神楽・太鼓の奉納や持ち投げも行われる。
《あし》名鉄有松駅下車。同駅か名古屋市営バス有松町口無池行で幕山か桶狭間寺前下車。栄えからなら名古屋市営バス・高速1号森の里団地行きで幕山か桶狭間寺前下車。
慈雲寺
相羽家の祖先をまつるため、1882(明治15)年に清心庵を造営したのに始まる。1890(明治23)年京都府下乙訓郡大枝村字塚原より寺号を移し相羽山慈雲寺とした。浄土宗で開山・慈空潜龍上人道雲和尚(相羽弌郎)は漢方医として、名を広く知られた医者で漢学者。一代で大きな財産をつくりあげたといわれ、尾張藩御目見御用懸医師締在方となった人。特に花柳病の名医として門前には旅篭二軒が並び、多くの患者が詰めかけにぎわった。また医術だけでなく算術・手習いのほか、手裏剣・吹煙術など武芸も教え、明治初年には桶狭間の戸長を務めている。寺の本堂は1895(明治28)年に棟上げを行った。山門は江戸時代に建てられた白壁造りの武家門で、長屋が付属しており寺というより武家屋敷といった趣き。開山の残した医術関係の手紙、書類、患者のカルテ、免許状、医術・手裏剣・吹煙術など教えを受けるための入門願書、本など多くの歴史的遺産が保存されている。
長福寺
永禄3(1560)年、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れた5月19日。義元と関係深い長福寺では毎年この日か、その前に義元ほか将兵を供養する大法要を営むが。突然雨が降り出すことがあり「義元の涙雨」と呼んでいる。浄土宗で1538(天文7)年の建立とされる。寺の縁起によれば和光山天沢院と号し善空南立上人の開山。『尾張徇行記』では中興開山が同上人という。本尊阿弥陀如来と文殊菩薩は今川家の家臣林阿弥が故主の回向に来てこの寺に納めたものという、寛文年間(1661~1672)の火災により宝物は消失した。本堂は宝暦年間(1751~1763)に改築され痛みが激しかったことから、1980(昭和55)年再建され鉄筋の堂宇になった。現存するものは本尊仏、義元、松井宗信の木造のほか、林阿弥の弥陀記や桶狭間合戦記などがある。
門前からゆるやかな坂を上ると惣門。昔は南向きにあったが、尾張四代目藩主徳川吉通が寺を訪れる際、行列が難渋するとの理由で、鳴海の豪商千代倉の当主下郷弥兵衛の寄進で道路に面した西向きに移された。門は1912(大正元)年の台風で倒壊したが再建されている。境内にスギが1本。桶狭間の戦いの勝敗が決したあと、信長が捕らえた義元の家臣、林阿弥に命じ首実検をした場所に供養のため植えられた。現在植えられているものは二代目で、初代のスギは高さ約27メートル、直径が約2メートルと大人がやっと抱えられる太さであったが伊勢湾台風の影響で枯れた。
寺には桶狭間の地名の元になったという伝説がある泉があり清水が湧き出ている。古くは南北朝時代の1340年ころ南朝の落人が、この泉の近くに住み、また村民、道行く旅人たちにとつても貴重な水源となっていた。桶狭間の戦いのときには将兵もこの水でのどを潤したろう。そのほか桶狭間勝宣供養塔、薬師堂、あらゆる願いがかなうという竜神もまつられている。
門前からゆるやかな坂を上ると惣門。昔は南向きにあったが、尾張四代目藩主徳川吉通が寺を訪れる際、行列が難渋するとの理由で、鳴海の豪商千代倉の当主下郷弥兵衛の寄進で道路に面した西向きに移された。門は1912(大正元)年の台風で倒壊したが再建されている。境内にスギが1本。桶狭間の戦いの勝敗が決したあと、信長が捕らえた義元の家臣、林阿弥に命じ首実検をした場所に供養のため植えられた。現在植えられているものは二代目で、初代のスギは高さ約27メートル、直径が約2メートルと大人がやっと抱えられる太さであったが伊勢湾台風の影響で枯れた。
寺には桶狭間の地名の元になったという伝説がある泉があり清水が湧き出ている。古くは南北朝時代の1340年ころ南朝の落人が、この泉の近くに住み、また村民、道行く旅人たちにとつても貴重な水源となっていた。桶狭間の戦いのときには将兵もこの水でのどを潤したろう。そのほか桶狭間勝宣供養塔、薬師堂、あらゆる願いがかなうという竜神もまつられている。
大雄山祇園寺
曹洞宗・大雄山祇園寺は文禄年間(1592~95)に開創された寺。草創開山・仁甫良義、法地開山・呑舟透鱗、開基・貞昌院智山妙寿大姉。『尾張志』に、「有松村にあり大雄山と号し、鳴海村瑞泉寺の末寺也。もと園道寺といいまた猿堂寺とも称し鳴海村にあらたむ猿堂という名に依り疱瘡の守りを出す。近年奈良の薬師寺の仏足石を模して其歌を石碑に彫って境内に建てたり好事の所業なり」と書かれている。
旧東海道から16の石段を登り山門をくぐる。境内正面に本堂。庫裏、三十三観音、1828(文政11)年に建てられた仏足石と仏足石歌碑。仏足石は釈迦が入滅前に残した足型を石に刻んだもの。日本にはインドから唐を経て伝わり各地で写し刻まれた。753(天平勝宝5)年銘文の奈良薬師寺のものが日本最古。同寺の仏足石は高さ55センチ、横100センチ。灰色の自然石に、一般に見られる吉祥文(法輪と指の間に彫られた魚文)、華瓶、螺貝、金剛杖などが刻まれていない素朴な彫り。全国に仏足石の種類は多いが、吉祥文のないものは少なく、徳川幕府お抱え医官、野呂元丈著『仏足石碑銘』に描かれている縮図の仏足石に良く似ている。
仏足石歌碑は高さ120センチ、横80センチ。歌碑表には豪潮の力強い筆で、薬師寺仏足石歌第一首(光明皇后恭仏石)が、万葉仮名で刻まれている。筆をふるった豪潮は豪潮寛海といい肥後熊本の人で天台宗の僧で近世高僧の一人でもある。1817(文政14)年69歳のとき、尾張10代藩主斉朝の病気平癒を祈願するため、大須万松寺の瑞岡珍牛、護国院の黙室良要の推挙で尾張に迎えられた。
本堂には本尊・釈迦牟尼仏、加葉尊者、阿難尊者、達磨大師、大権修理菩薩、十六羅漢など仏像を安置。余間には地蔵菩薩ほか、一段と金色に葵の紋が輝く初代藩主義直と二代藩主光友の位牌がまつられている。
旧東海道から16の石段を登り山門をくぐる。境内正面に本堂。庫裏、三十三観音、1828(文政11)年に建てられた仏足石と仏足石歌碑。仏足石は釈迦が入滅前に残した足型を石に刻んだもの。日本にはインドから唐を経て伝わり各地で写し刻まれた。753(天平勝宝5)年銘文の奈良薬師寺のものが日本最古。同寺の仏足石は高さ55センチ、横100センチ。灰色の自然石に、一般に見られる吉祥文(法輪と指の間に彫られた魚文)、華瓶、螺貝、金剛杖などが刻まれていない素朴な彫り。全国に仏足石の種類は多いが、吉祥文のないものは少なく、徳川幕府お抱え医官、野呂元丈著『仏足石碑銘』に描かれている縮図の仏足石に良く似ている。
仏足石歌碑は高さ120センチ、横80センチ。歌碑表には豪潮の力強い筆で、薬師寺仏足石歌第一首(光明皇后恭仏石)が、万葉仮名で刻まれている。筆をふるった豪潮は豪潮寛海といい肥後熊本の人で天台宗の僧で近世高僧の一人でもある。1817(文政14)年69歳のとき、尾張10代藩主斉朝の病気平癒を祈願するため、大須万松寺の瑞岡珍牛、護国院の黙室良要の推挙で尾張に迎えられた。
本堂には本尊・釈迦牟尼仏、加葉尊者、阿難尊者、達磨大師、大権修理菩薩、十六羅漢など仏像を安置。余間には地蔵菩薩ほか、一段と金色に葵の紋が輝く初代藩主義直と二代藩主光友の位牌がまつられている。
有松・桶狭間のまつり
昔、有松の氏神は桶狭間神明社。桶狭間神明社の祭りが有松・桶狭間の祭りで、祭礼は例年8月16日(陰暦)と定められ、寛文年間(1661~72)のころから行われていました。この神明社の祭りに出る傘鉾が、大高、鳴海の傘鉾とともに熱田まで尾張藩世継に見せるためでかけたと伝えられている。祭りはふるまい酒が特徴で、獅子をかぶって町中を回り奉納馬(馬之頭)も出るなど、有松・桶狭間の祭りとして盛大におこなわれていた。1798(寛政10)年、有松に天満社が造営されると神明社は本宮と呼ばれるようになり、有松の祭りの中心は絞りで発展する有松天満社へと移ったが。桶狭間神明社でも祭りは開かれ、天満社の祭礼には桶狭間が参加し神明社の祭礼には有松が加わるなど相互に参加して祭りを盛り上げた。1933(昭和8)年の協議で桶狭間と有松がそれぞれで祭りを行うようになった。
桶狭間神明社は600年以上前に人が住み着いたころ建てられたといわれている。桶狭間の戦いのときには、今川義元の家臣・瀬名氏俊が戦いに勝つように祈願したといわれ、氏俊が酒を供えたと伝えられる桶が宝物として残っている。元禄年間(1688~1703)尾張四代藩主徳川吉通が知多郡を巡行の途中で神明社を訪れ参詣の記念に植えたスギ2本があった。1860(万延元)年の台風で倒れ、村人が惜しみ神木として保存するとともに二代目を植えたが再び枯れ、現在は三代目が本殿前で元気に育っている。祭りは各町内の神輿や梵天、傘鉾、音頭台、猩々が町中を回り神社前に参集。一斉に坂を駆け上がって神社に乗り込み祭りをいっそう盛り上げる。境内では神事のほか神楽・大太鼓の奉納や餅投げも行われる。
天満社の祭りは絞りの盛衰とともに返還はあったが、近年は1973(昭和48)年に名古屋市文化財に指定された「布袋車」「唐子車」「神功皇后車」の山車3台が、からくり人形を踊らせたり、筆を手に文字を鮮やかに書かせたり。華麗な絵巻をくり広げながら町内を曳き回る。夜のとばりが降りると山車の250個の提灯にろうそくが一斉に灯され祭りも最高潮に。人々は祭囃子に乗ってからくり人形が描く「月」や「天」の文字に酔いしれる。「布袋車」は1677(延宝5)年に造られた名古屋の玉屋町の山車、1891(明治24)年に東町の有志が寄付を募り譲りうけた。人形ははじめ布袋和尚の袋の中から二人の唐子が飛び出し、一人の唐子が玉を持って戯れ、もう一人が玉をくれと手を出すと「あかんべー」をするからくりだった。1768(明和5)年に玉屋庄兵衛の作といわれる文字書き人形となり、4体の人形(采振り・文字書き・唐子・布袋)がからくりを披露する。緋の大幕は1812(文化9)年の製作、正面に鳳凰と亀、右に猛虎、左に蟠龍の刺繍がされている。「唐子車」は1875(明治8)年に中町の有志が寄付を募り買い取ったものである。山車は天保時代(1830~42)の製作で、内海の小平治いとう豪商が20年の歳月をかけて造り上げたものといわれる。唐木づくめの構造で、青貝塗りの輪掛けなど凝ったつくりになっている。人形は真守作で采振り、文字書き、唐子の3体で構成されている。大幕は緋の無地で、水引きは白羅紗に金糸で波に鯉の縫い取りがされている。幕の房は珊瑚でできており、その留め金は上から松・竹・梅の順に象眼がなされている。「神功皇后車」は1873(明治6)年に西町の有志が名古屋市久屋町の大工久七の設計で製作した。最初は中国の武将、関羽の人形であったが、1895(明治28)の日清戦争のあと名工といわれた土井新七が製作した神功皇后と武内宿禰の人形に置き換えられた。前人形は大柄な采振りで舌をぺろりと出す独特のからくり。大幕は緋の無地で、水引き幕は渡辺崋山の次男、小華の下絵で芙蓉、水仙、牡丹、杜若を組み合わせた刺繍がされている。
桶狭間神明社は600年以上前に人が住み着いたころ建てられたといわれている。桶狭間の戦いのときには、今川義元の家臣・瀬名氏俊が戦いに勝つように祈願したといわれ、氏俊が酒を供えたと伝えられる桶が宝物として残っている。元禄年間(1688~1703)尾張四代藩主徳川吉通が知多郡を巡行の途中で神明社を訪れ参詣の記念に植えたスギ2本があった。1860(万延元)年の台風で倒れ、村人が惜しみ神木として保存するとともに二代目を植えたが再び枯れ、現在は三代目が本殿前で元気に育っている。祭りは各町内の神輿や梵天、傘鉾、音頭台、猩々が町中を回り神社前に参集。一斉に坂を駆け上がって神社に乗り込み祭りをいっそう盛り上げる。境内では神事のほか神楽・大太鼓の奉納や餅投げも行われる。
天満社の祭りは絞りの盛衰とともに返還はあったが、近年は1973(昭和48)年に名古屋市文化財に指定された「布袋車」「唐子車」「神功皇后車」の山車3台が、からくり人形を踊らせたり、筆を手に文字を鮮やかに書かせたり。華麗な絵巻をくり広げながら町内を曳き回る。夜のとばりが降りると山車の250個の提灯にろうそくが一斉に灯され祭りも最高潮に。人々は祭囃子に乗ってからくり人形が描く「月」や「天」の文字に酔いしれる。「布袋車」は1677(延宝5)年に造られた名古屋の玉屋町の山車、1891(明治24)年に東町の有志が寄付を募り譲りうけた。人形ははじめ布袋和尚の袋の中から二人の唐子が飛び出し、一人の唐子が玉を持って戯れ、もう一人が玉をくれと手を出すと「あかんべー」をするからくりだった。1768(明和5)年に玉屋庄兵衛の作といわれる文字書き人形となり、4体の人形(采振り・文字書き・唐子・布袋)がからくりを披露する。緋の大幕は1812(文化9)年の製作、正面に鳳凰と亀、右に猛虎、左に蟠龍の刺繍がされている。「唐子車」は1875(明治8)年に中町の有志が寄付を募り買い取ったものである。山車は天保時代(1830~42)の製作で、内海の小平治いとう豪商が20年の歳月をかけて造り上げたものといわれる。唐木づくめの構造で、青貝塗りの輪掛けなど凝ったつくりになっている。人形は真守作で采振り、文字書き、唐子の3体で構成されている。大幕は緋の無地で、水引きは白羅紗に金糸で波に鯉の縫い取りがされている。幕の房は珊瑚でできており、その留め金は上から松・竹・梅の順に象眼がなされている。「神功皇后車」は1873(明治6)年に西町の有志が名古屋市久屋町の大工久七の設計で製作した。最初は中国の武将、関羽の人形であったが、1895(明治28)の日清戦争のあと名工といわれた土井新七が製作した神功皇后と武内宿禰の人形に置き換えられた。前人形は大柄な采振りで舌をぺろりと出す独特のからくり。大幕は緋の無地で、水引き幕は渡辺崋山の次男、小華の下絵で芙蓉、水仙、牡丹、杜若を組み合わせた刺繍がされている。
寺子屋私塾
有松・桶狭間には江戸時代末期から明治初頭にかけ子供たちに読み書きなどを教えていた人たちがいる。桶狭間では長福寺の僧侶が1866(慶応2)年から1872(明治5)年まで18人の生徒に読み書きと算術。農業の梶野清左衛門が天保以前から1866(慶応2)年まで15人に読み書きと算術、作法を教授していた。有松では祇園寺の僧侶・信操永堅が1849(嘉永2)年から1882(明治15)年まで、20人ほどの人に仏典・漢籍の読み。武士の梶田松次郎が子息の清之助とともに安政のころから明治初年まで、約20人の子供たちに読み書きを指導していた。また、有松の「右与衛門」と「おとも」も教えていたとされるが詳しいことはわからない。
嵐廻間古窯跡
窯は大芝池の北側で標高34㍍の丘陵南斜面に2㍍の間隔をおいて2基が並んでいた。1956(昭和31)年に有松中学校によって調査された。窯は全長7メートルで最も広い部分は2メートル、窯の傾斜度は10度~40度で焚口から煙道へと続いていた。窯内部の高さは約1メートルと推定され、出土したのは山茶碗や山皿が中心で、大型の茶碗(口径18センチ高さ4センチ底径8センチ)も出土している。釉薬を塗ったように光っている山茶碗があるが、マツやナラの木を燃料としているため、木の灰が付着して釉薬を利用したように見える。灰原には焼成に失敗した十数個重なった山茶碗などがあった。同窯跡のほか1957(昭和32)年に有松中学校が発掘調査した清水山古窯跡、三丁山、生山、幕山、愛宕西・東、神明、清水谷、深谷池、上ノ山の古窯跡があり遺物が出土しているが、調査されないまま工事などで消滅してしまった窯跡も多い。窯が築かれたのは丘陵が多く燃料となる木、一番大切な原料となる良質な粘土、製品を運び出すルートなど条件がそろっていたことが考えられる。
有松・桶狭間の生い立ち
有松・桶狭間にはいつごろから人々の営みが始まったのでしょう。その歴史は貝塚などとして大切に土のなかに保存され、工事などによって時々私たちの前に姿を見せてくれます。
桶狭間では石鏃が撒布していた報告があり、石器時代にはすでに人々が暮らしたと推定される痕跡が残っています。
有松・桶狭間には鎌倉・平安時代の山茶碗などを焼いた窯が多くあり、窯から盛んに立ち上る煙の下で工人たちが暮らしていたことがわかります。
1980(昭和55)年の南陵小学校の工事でも山茶碗など約2000点が見つかっています。
桶狭間には南北朝時代の1340(興国1・暦応3)年ころ戦いに敗れた南朝の人たち3~4人が住み始めと伝えられ、有松には1608(慶長13)年、尾張藩の移住奨励によって8人が移り住みました。
いずれの土地も肥沃ではなく、厳しい環境の中で努力して暮らしを立て、そして少しずつ人口が増え発展していったのです。
桶狭間は1560(永禄3)年に織田信長と今川義元の戦いが繰り広げられました。日本が統一への幕開けとなった歴史的資産である合戦の場所です。
有松は尾張藩の触書「知多郡之内桶狭間村新町之儀 諸役令免許候間望之者ニ於テハ被地ヘ可越者也仍如件 慶長十三年二月十八日 寺西藤左衛門 原田右衛門」によって開村しました。
1878(明治11)年に桶狭間は共和(大府市の北部)と合併しました。
1896(明治29)年に有松は町となり1893(明治26)年11月には桶狭間が有松と合併して有松町となりました。
1964(昭和39)年に有松町が名古屋市と合併して知多郡有松町から名古屋市緑区有松町となりました。
桶狭間では石鏃が撒布していた報告があり、石器時代にはすでに人々が暮らしたと推定される痕跡が残っています。
有松・桶狭間には鎌倉・平安時代の山茶碗などを焼いた窯が多くあり、窯から盛んに立ち上る煙の下で工人たちが暮らしていたことがわかります。
1980(昭和55)年の南陵小学校の工事でも山茶碗など約2000点が見つかっています。
桶狭間には南北朝時代の1340(興国1・暦応3)年ころ戦いに敗れた南朝の人たち3~4人が住み始めと伝えられ、有松には1608(慶長13)年、尾張藩の移住奨励によって8人が移り住みました。
いずれの土地も肥沃ではなく、厳しい環境の中で努力して暮らしを立て、そして少しずつ人口が増え発展していったのです。
桶狭間は1560(永禄3)年に織田信長と今川義元の戦いが繰り広げられました。日本が統一への幕開けとなった歴史的資産である合戦の場所です。
有松は尾張藩の触書「知多郡之内桶狭間村新町之儀 諸役令免許候間望之者ニ於テハ被地ヘ可越者也仍如件 慶長十三年二月十八日 寺西藤左衛門 原田右衛門」によって開村しました。
1878(明治11)年に桶狭間は共和(大府市の北部)と合併しました。
1896(明治29)年に有松は町となり1893(明治26)年11月には桶狭間が有松と合併して有松町となりました。
1964(昭和39)年に有松町が名古屋市と合併して知多郡有松町から名古屋市緑区有松町となりました。
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