2009年5月17日日曜日

復刻:みどり 名所ある記 鷲津、丸根砦跡


 毎日新聞別刷り みどり 名所ある記 1978年3月15日号

 鷲津、丸根砦跡 

 陽光うららか。花だよりももうすぐだ。冬の間、家に閉じこもりがちだった体をほぐそうとぶらりハイキングコースを歩いてみた。
 市バスを大高駅前で降り、南へ二十メートルほど歩き左へ。だらだら坂が丘の上へと続く。名古屋市の立てた「鷲津砦跡」の高札。その高札の前の急な坂をあえきながら登った。
 一説による鷲津砦(とりで)本丸跡へいってみた。この丘一番の高台、それとおぼしき場所には年老いた松が何本も寄り合い、本丸跡はここだと主張するように立っていた。

 往事はるか、落城の碑 ただ望見 新幹線、工場群

 丘からながめると、砦が築かれた永禄二年(一五五九)のころは海であった南西方面には工場がぎっしりと並び、臨海工業地帯を形成していた。砦跡の空は青く広がっていたが、工業地帯は春かすみにしてはどんよりとしていた。
 高札の場所まで戻る。碑への道を探したが見つからない。木々の間を潜りながら道なき道を登りおりする。パッと目の前が明るくなり小さな原っぱへ出た。やわらかな日差しの中に表忠碑が浮かひ立っている。その後ろに隠れるように鷲津砦跡の碑があった。
 この砦は織田信長が今川方の大高城に対抗するため丸根砦とともに築いたもので、標高三十五メートルの丘に東西四十メートル、南北六十九メートルの広さであったというが正確なことはわからない。
 永禄三年(一五六〇)の桶狭間の戦いの時は、飯尾定宗が四百の将兵を指揮し朝比奈泰能ひきいる今川軍二千を迎え戦った。堅周な城壁があるわけでもない砦では、圧倒的な人教を誇る今川軍を繋退することは到底むずかしく砦に火をつけての猛攻に、飯尾定宗以下多数の将兵か討ち死にし陥落した。
 この砦跡碑を起点として、丸根砦などをへて長福寺までの全長五キロメートルが緑区民ハイキンクコースに指定されている。
 丘を少しおりる。途中から道が二つに分かれる。左へとり長寿寺の境内を通るのが本来のコースだが、現在、寺は工事中で通れないので石へ進む。石畳の階段をおりると鷲津公園へ出た。公園は新しく造られたばかりで設備も美しい。
 現在は砦跡へはバス停から高札の立っている場所へ曲がらず、そのまま三十メートルほど南へ歩き、公園から登ったほうがわかりやすい。
  ◇
 丸根砦へは公園前の道を南へ、長寿寺前を通り過ごし、すぐの道を左へ折れる。少し歩くと案内板が目に入る。途中には大きな桜やツバキの木があり花の咲く季節には人々を楽しませることだろう。
 どこからともなく色々な鳥の鳴き声にまじってウグイスの声が聞こえ、ぶらり歩きも楽しくなる。
 十二分ほど歩くともうそこが丸根砦跡の丘。頂上近くに史跡丸根砦跡と彫られた石碑と戦死者慰霊の塔があった。この丘も開発の波には勝てないのか満身傷だらけ。その傷跡に宅地が造成されていた。
 砦は東西三十六メートル、南北二十八メートルで外側には堀があったというが、丘の周りに一部堀跡らしいものが残るだけである。
 桶狭間の戦いの時は佐久間盛重が七百の将兵で松平元康(徳川家康)の二千五百を迎撃した。鷲津砦とは反対に将兵が一丸となって砦から討って出て戦い、今川方の将松平正親など多数を倒したが、次々と現れる新しい敵に耐え切れず盛重以下全員が討ち死にした。
 丘からは大高城跡がすぐ近<。目の前を新幹線か通過した。そのごう音は押し寄せる将兵のときの声に聞こえ、一瞬タイムマシンで戦国時代にまい込み、戦場にいるような気持ちになった。
☆交通=市バス・名鉄バスとも大高駅前下車▽国鉄大高下車
(淡河=写真も)

 鷲津砦跡にひっそりと立つ石碑

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