2009年7月17日金曜日

みどりの歴史を訪ねて 鳴海編発刊


 2009年7月17日 みどりの歴史を訪ねて 鳴海編 を発刊しました。
 A4版 中綴じ カラー 46頁 1500円

 先人たちの生活、文化に思いを馳せる
 鳴海の歴史を訪ねて
 鳴海ではいつから人々の営みが始まったのでしょう。人が暮らした足跡が遺跡と
して多く残されています。貝塚などとして大切に土の中に保存され、工事や調査な
どで私たちの前に姿を見せてくれます。縄文時代には海の幸・山の幸が豊富で温暖
な気候に誘われるかのように人が生活を始めています。
 正倉院に伝わる古い文書にも鳴海がたびたび登場しています。成海・奈留美・鳴
海と文字が変わる中で人々の生活と文化の発展がありました。そして、京と鎌倉を
結ぶ鎌倉街道に続き、京と江戸をつなぐ東海道の発達とともに、宿駅となった鳴海
の町も大きく発展してきました。
 鳴海には古代の遺跡から古墳、日本武尊の伝説も残っています。桶狭間の戦いの
一翼を担った城と砦、東海道五十三次の宿場、俳聖・松尾芭蕉の史跡などの歴史が
あります。鳴海が町としてスタートしてからでも数百年の歳月が流れ、さまざまな
歴史が刻まれてきました。古い時代から現代までを訪ねて見ましょう。この「みど
りの歴史を訪ねて鳴海編」は、名古屋市に合併する前の愛知郡鳴海町の範囲とし
ました。参考にして歩いていただけるように、歴史背景を巻頭にして、南・北・東
の三方向から宿場「鳴海」の中心へ探訪する設定にしました。

◎無土器-弥生時代 弥生先人の生活史刻む
◎古墳時代 鉄剣うつつ古代への誘い
◎鎌倉街道 山路・波路融け合って
◎芭蕉の史跡 俳聖の漂泊の旅しのぶ
◎鳴海絞 伝統の技 今に伝えて
鳴海が誇る名所をぶらり 名所ある記「東から」
鳴海が誇る名所をぶらり 名所ある記「南から」
鳴海が誇る名所をぶらり 名所ある記「北から」
鳴海名所ある記地図

2009年5月17日日曜日

復刻:みどり 名所ある記 鷲津、丸根砦跡


 毎日新聞別刷り みどり 名所ある記 1978年3月15日号

 鷲津、丸根砦跡 

 陽光うららか。花だよりももうすぐだ。冬の間、家に閉じこもりがちだった体をほぐそうとぶらりハイキングコースを歩いてみた。
 市バスを大高駅前で降り、南へ二十メートルほど歩き左へ。だらだら坂が丘の上へと続く。名古屋市の立てた「鷲津砦跡」の高札。その高札の前の急な坂をあえきながら登った。
 一説による鷲津砦(とりで)本丸跡へいってみた。この丘一番の高台、それとおぼしき場所には年老いた松が何本も寄り合い、本丸跡はここだと主張するように立っていた。

 往事はるか、落城の碑 ただ望見 新幹線、工場群

 丘からながめると、砦が築かれた永禄二年(一五五九)のころは海であった南西方面には工場がぎっしりと並び、臨海工業地帯を形成していた。砦跡の空は青く広がっていたが、工業地帯は春かすみにしてはどんよりとしていた。
 高札の場所まで戻る。碑への道を探したが見つからない。木々の間を潜りながら道なき道を登りおりする。パッと目の前が明るくなり小さな原っぱへ出た。やわらかな日差しの中に表忠碑が浮かひ立っている。その後ろに隠れるように鷲津砦跡の碑があった。
 この砦は織田信長が今川方の大高城に対抗するため丸根砦とともに築いたもので、標高三十五メートルの丘に東西四十メートル、南北六十九メートルの広さであったというが正確なことはわからない。
 永禄三年(一五六〇)の桶狭間の戦いの時は、飯尾定宗が四百の将兵を指揮し朝比奈泰能ひきいる今川軍二千を迎え戦った。堅周な城壁があるわけでもない砦では、圧倒的な人教を誇る今川軍を繋退することは到底むずかしく砦に火をつけての猛攻に、飯尾定宗以下多数の将兵か討ち死にし陥落した。
 この砦跡碑を起点として、丸根砦などをへて長福寺までの全長五キロメートルが緑区民ハイキンクコースに指定されている。
 丘を少しおりる。途中から道が二つに分かれる。左へとり長寿寺の境内を通るのが本来のコースだが、現在、寺は工事中で通れないので石へ進む。石畳の階段をおりると鷲津公園へ出た。公園は新しく造られたばかりで設備も美しい。
 現在は砦跡へはバス停から高札の立っている場所へ曲がらず、そのまま三十メートルほど南へ歩き、公園から登ったほうがわかりやすい。
  ◇
 丸根砦へは公園前の道を南へ、長寿寺前を通り過ごし、すぐの道を左へ折れる。少し歩くと案内板が目に入る。途中には大きな桜やツバキの木があり花の咲く季節には人々を楽しませることだろう。
 どこからともなく色々な鳥の鳴き声にまじってウグイスの声が聞こえ、ぶらり歩きも楽しくなる。
 十二分ほど歩くともうそこが丸根砦跡の丘。頂上近くに史跡丸根砦跡と彫られた石碑と戦死者慰霊の塔があった。この丘も開発の波には勝てないのか満身傷だらけ。その傷跡に宅地が造成されていた。
 砦は東西三十六メートル、南北二十八メートルで外側には堀があったというが、丘の周りに一部堀跡らしいものが残るだけである。
 桶狭間の戦いの時は佐久間盛重が七百の将兵で松平元康(徳川家康)の二千五百を迎撃した。鷲津砦とは反対に将兵が一丸となって砦から討って出て戦い、今川方の将松平正親など多数を倒したが、次々と現れる新しい敵に耐え切れず盛重以下全員が討ち死にした。
 丘からは大高城跡がすぐ近<。目の前を新幹線か通過した。そのごう音は押し寄せる将兵のときの声に聞こえ、一瞬タイムマシンで戦国時代にまい込み、戦場にいるような気持ちになった。
☆交通=市バス・名鉄バスとも大高駅前下車▽国鉄大高下車
(淡河=写真も)

 鷲津砦跡にひっそりと立つ石碑

2009年5月13日水曜日

復刻:みどり 名所ある記 鳴海城跡


 毎日新聞別刷り みどり 名所ある記 1978年2月15日号

 鳴海城跡

 如月(きさらぎ)。立春も過ぎ、ふきのとうも芽を出し始めた。春をはだで感じる日の昼さがり、鳴海の古城跡をたずねてみた。

 名鉄鳴海駅前、両側に商店が並ぶにきやかな通りを、旧東海道を横切り北へ歩く。旧道ぞいの花屋の店先に、スイセンやサクラソウなど美しい花が咲きこぼれ、ひなびたたたずまいに調和していた。

 道が大きく左ヘカーブする地点が鳴海町字城。地名の示すように鳴海城(根古屋城)跡である。正面が切り立った城跡は見上げた丘の頂きに赤い鳥居がのぞいていた。
 急な石段を上る。途中「根古屋城跡、東西約一三七米、南北約六二米、応永年間(一三九四~一四二七)安原宗範の居城のち廃城、その後永禄年中、今川の猛将、岡部五郎兵衛元信この城を守り、桶狭間の戦にはよく戦った。その後信長の臣佐久間信盛、城主となり天正の末廃城となる。昭和五十二年三月名古屋市教育委員会」の高札。
 三十一段の石段を上り切ると約二〇メートル四方ほどの平地があり、天満社が祭られている。

 栄枯見守った老木二本 佐久間信盛を最後に廃城

 城跡に老木二本。人の世の栄枯盛衰をじっと見守りながら風雪に耐え、生きながらえてきた。ふた抱えほどもあるムクとエノキのこの老木(名古屋市保存木に指定)は早春の風にさからいながら何か言いたげである。近くに鳴海城趾之碑と彫られた二メートルほどのいしぶみ。ここから見下ろせる西側道路を隔てた丘、現在、緑保健所が建っている周りも城跡である。保健所横は城跡公園となり子供たちが元気に遊んでいた。
 あたりは木々が多く、小烏のさえずりもさわやかである。日だまりで友幸ちゃん(二つ)を遊ばせていた鳴海町花井、野田勝美さん(三〇)は「今は寒いのであまり来ませんが、瞬かくなるとよく来ます。安心して子供を遊はせられますし、木が多く静かで、何か心が休まるような気がします」と話していた。

 この城跡の地の歴史は古く原始時代にさかのぼる。有史以前この地まで海が陸に入り組み、風光明美、漁業、農業または狩りをしながら人々が住んでいたといわれ、弥生後期の土器類、奈良・平安時代(七一五~一一九八)のかわらなどが数多く発掘されている。室町時代に入り応永元年(一三九四)に安原備中守宗範が城を築いて住んだが、応永二十五年(一四一九)宗範の没により廃城となった。時代は移り、戦国時代、この地が尾張と三河を結ぶ要所にあったため、信長の父信秀が古城を修理させ、山口左馬介義継に今川義元にそなえ守備させた。古地図によれは城郭は東西二つに分かれており、真ん中に堀があった。この堀跡が現在道路となっている。

 信秀の没したあと、左馬介は謀反を起こし、義元についたが、義元は左馬介を切腹させた。義元はその後へ岡部五郎兵衛元信を置いてこの城を守らせた。これに対し信長は丹下、善照寺、中島等の砦(とりで)を築いて対抗した。永禄三年(一五六〇)五月、義元は二万五千の大軍を率いて上洛への軍を発したが、桶狭間において信長に討たれたため今川方の城や砦はつきつぎと落ちた。しかし元信は屈せずよく戦った。信長は義元の首を丁重に僧を使って元信に返したため、元信は駿府へ帰った。
 のち信長の臣・佐久間信盛が城主となっていたが、天正三年(一五七五)信盛が刈谷城に移ったことにより廃械となった。

☆交通=名鉄鳴海駅前より徒歩三分 (文と版画・写真=淡河)

 鳴海城跡の石段~ひなびたたたずまいは市民のやすらぎに

2009年5月10日日曜日

復刻:みどり 名所ある記 善照寺砦跡



 毎日新聞別刷り みどり 名所ある記 1978年1月15日号

 善照寺砦跡

 信長、夢幻の戦さ跡

 名鉄鳴海駅前の道を北へ、扇川を渡り、旧東海道を横切ってなだらかな坂道を登ると、根古屋城跡へ出る。その前を右へ折れる。まだまだ続くなだらかな登り道、一月とは思えない暖かい日差しの中を歩くとじっとり汗ばんできた。左側に今ではめずらしくなってしまった木造建ての校舎があった。鳴海小学校。校庭では子供たちが冬の日差しの中で元気になわとびやドッジボールにきょうじていた。
 学校からさらに少し歩くと、小高い丘があり、松や桜の木々が木枯らしをさえぎっている。この丘頂上一帯が整地され、子供たちのためにブランコや砂場が作られ、砦(とりで)公園と名付けられて人々に親しまれている。公園では付近の幼稚園児たちが無心に遊んでいた。

 “打倒・今川義元”の拠点に

 この砦は、織田方であったのに今川方となっでしまった根古屋城に対抗するため繊田信長が永禄二年(一五五九)三月に造ったもので、尾張志などによれば、東西二十四間(四十四メートル)、南北十六間(二十九メートル)の広さであったというが、今ではもちろんその広さもなく三木ほど残る老木がその名残をとどめているだけだ。砦跡に立って望見してみると、この一帯ではやはり一番の高台で見通しも良い。対する根古屋城方面は高層の建物が立ってしまい、いまでは想像するしかないが、この砦からは根古屋城がみおろせる位置にあったのではないだろうか。
 砦は永禄三年(一五六〇)五月桶狭間の戦いのときは佐久間左京亮が守備していた。
 織田信長はあの有名な『人間僅五十年比下天内受生無不滅…」幸若舞(こうわかまい)の「敦盛(あつもり)」の一節を三度舞い。美しい濃姫に見送られ、従者わずか八十騎あまりで清洲城を飛び出した。
 途中、熟田神宮に戦勝を祈願し志気を鼓舞、そして古鳴海、丹下を経て、諸砦の兵を合わしつつ善照寺砦に入った。清洲より追いついて来た手兵や諸砦の兵など三千人がこの砦で集結した。織田信長は根古屋城の敵をあざむくため、旗さし物を立てて並べさせ、織田軍がいかにもろう城し、砦を死守するかのように見せかけ、織田信長自ら手兵約二千をひきいて、ひそかに砦を出た。森や山陰をぬうように進むうち、おりしも大風雨。このときとぱかり今川義元の本陣へ突っ込み、敵のの虚をついて大勝利た得たという。みなさんご承知の「桶狭間の戦い」の一節。

 鳴海絞り元祖の碑も

 近くに鳴海絞りの元祖と言われる三浦玄忠の碑がある。

☆交通=名鉄鳴海より徒歩十分▽市バス=緑市民病院下車徒歩三分・鳴海小学校下車徒歩三分
(淡河=版画も)

復刻:みどり 名所ある記 瑞泉寺


毎日新聞別刷り みどり 名所ある記 1977年12月15日号

名所ある記

瑞泉寺

☆名鉄鳴海駅前から旧東海道を東へ。新しい家々が多くなり、車がいそがしけに走りまわってはいるが、まだずしりと重みを感じさせる古い門構えの家もちらほら。
 黒べいごしに老松が木枯らしにふるえ街道の名残をわずかにとどめている。約八分歩くと扇川(中島橋)と交差する。その手前方側に龍蟠山瑞泉寺があった。

☆鳴海町相原町四。入口には名古屋市が立てた古ぼけた高札と緑区観光協会連合会の案内板がある。

☆白壁に囲まれた石段を「一つ二つ」と数えながら登る。二十段の石段を登りつめると、朱を塗った立派な山門が立ち、正面には「曇華峰」(どんげほう=山号の別称)と雄大な字体の扁額が掲げられていた。この山門は京都府宇治市黄檗(おうばく)宗万福寺の総門を模したといわれる黄檗式重層の建造物である。(昭和三十二年一月十二日、愛知県文化財に指定)

 漂う静寂・枯淡の趣

☆横に石とうろう一基と葉を落としたザクロの木が一本、静寂・枯淡の趣があった。山門をくぐり境内に入ると、山門の朱色のはなやかさとはうって変わった荘厳さ。

☆五一一七平方メートルの境内には本堂、開山堂、書院、庫裏などが整然と並び、ほうき目の跡もあざやかな庭に、真っ白な山茶花が今を盛りと咲きほこっていた。二羽の鳩がのんびりとエサをついばんでいる。この寺は曹洞宗大本山総持寺の直末で釈迦牟尼如来を本尊としている。応永三年(一三九六)今から五八一年前、根古屋城(鳴海城)城主安備中守宗範が建立したもので、大徹宗令の開山である。寺は初め平部諏訪山にあったが焼失したため文亀元年(一五〇一)現在の場所に移った。

 山門の守護は竜王の娘

☆三世劫外は徳望が高く、多くの人々を教化した。この地にすむ竜王の娘(蛇身)が女人の姿をして、かかさず熱心に法話を聞く座に連なっているのに気づいた劫外は不憫に思い戒法を授けた。竜の娘は蛇身を脱して成仏しそのお礼に「諸人に利益を与えんと山門の守護神となった」という。これによりこの寺を龍蟠山と号している。

☆寺には守悦上人の無縫塔や明倫同篤学石川香山の墓などがある。あわただしい年の瀬のひとときをこの境内で過ごすのもまた楽しからずや…そんな思いで寺を後にした。

※交通=名鉄鳴海駅から徒渉約八分、市バス六条停から徒渉五分。
※年中行事=秋葉祭十二月十六日▽御開山忌法要一月二十五日▽龍神祭八月二十二日など。
(淡河)

 朱更りの瑞泉寺の山門

2009年5月9日土曜日

復刻:みどり 名所ある記 大高城跡



毎日新聞別刷り みどり 名所ある記 1977年11月15日号

名所ある記

大高城跡

☆緑区大高町字城山の静かな小高い丘。色づく木々の中からモズの鳴声がひときわかん高く聞こえる。そんな中に大高城跡があった。本丸跡への登り口は小公園、ブランコやすべり台などの遊具が並び、子供たちの夢づくりの場となっている。

 戦国有情 夢秘して

 大高城由来の高札を横に、なだらかな道を三十メートルほど登ると、目の前が開け芝生の広場が現れる。この広場を少し登ったところが本丸跡。いまにも倒れそうな鳥居の横に淡いピンクのコスモスが咲いていた。奥に鶴岡八幡宮が祭られ八幡宮の前には寛文十年(一六七〇)志水甲斐守が奇進したという石とうろうの台石が二つ。近くのクマザサの中に二メートルほどの大高城跡の石碑が立つている。この城は「古城巡覧」によると東西五十九間(一〇七メートル)、南北十八間(三三メートル)、四方堀二重なり、とあるが、現在は堀の姿さえない。構築の年代もはっきりしないという。

 若き家康「兵糧入れ」に成功

 城が尾張と三河を結ぶ交通の要所にあったため、天文・弘治のころ(一五三二~一五五七)から織田、今川の争いの場となり、城は織田方そして今川方とゆれ動いた。永禄二年(一五五九)桶狭間の戦いの前の年、鳴海城主山口左馬介の謀反で今川方となったこの城を織田信長は、城の東北八百メートルの高台に鷲津、またその東南の高台に丸根と二つの砦(とりで)を築くことにより兵糧の道を絶った。今川義元はこれを救うため、松平元康(徳川家康)に命じ兵糧を城中へ送らせた。非常に危険な任務であったが、元康は数百人を指揮し米四百俵あまりを人馬共に堂々と城中に運び入れた。これが有名な大高兵糧入れである。
 このころから将来、徳川幕府を起こす家康の戦いのうまさ、運の強さをみせているように思われる。桶狭間の戦いには元康が守っていたが、義元の戦死をきき三河に引きあげたため、戦略上の価値がなくなり廃城となった。元和二年(一六一六)尾張藩家老志水甲斐守が一万石を領し、城跡に住み、そののち明治初年まで子孫が継承して所領していた。
 昭和十三年十二月、国の文化財に指定。
 交通=国鉄大高駅から徒歩約十五分
(淡河)

 “六高城”の本丸跡に立つ鶴岡八幡宮と島居

2009年5月5日火曜日

展示品:100 鳴海名所八景和歌

 2009年5月8日~8月9日 東海道の宿場「鳴海」の古今~記者の目で見つけた地元の歴史~(荒木集成館)展示品 淡河俊之コレクション