2007年10月22日月曜日

桶狭間古戦場を訪ねて


 1560(永禄3)年5月19日の桶狭間の合戦では、2000人余りの手勢を率いた織田信長が、今川義元の大軍(約2万5000人)を破って天下統一へ大きな一歩を踏み出した。
 地元では「桶狭間古戦場保存会」のほか、2004(平成16)年5月「桶狭間の戦いを学ぶ会」が設立され、メンバーがガイドを始めるなど観光客誘致の取り組みも活発化している。
 名古屋市緑区の古戦場跡、義元の首検証をしたという長福寺などを訪ね、将兵たちが駆け抜けた時代に思いをはせた。
 名鉄有松駅で電車を降り、バスに乗ってもよかったが歩く。古い町並みの続く旧東海道を左へ折れ、有松・鳴海絞会館、有松山車会館を過ぎて有松郵便局を右に曲がる。
 国道1号を渡って30分ほど歩くと、幕山バス停が見えてくる。バスの人はここで降りる。
 近くに、1988(昭和63)年の土地区画整理事業で整備された「桶狭間古戦場跡」(田楽坪)がある。
 今川義元戦死の地については諸説あるが、豊明市南舘が1962(昭和37)年、戦死の場所として国史跡に指定された。しかし、2万人以上の将兵が入り乱れて戦った合戦でのことだ。歴史家の間で現在でも議論が続いている。
 合戦の中心地だった桶狭間古戦場跡も、古くから義元が戦死した地と伝えられる。
 公園内には、義元が沓掛城から大高城に進軍する途中で休息し、馬をつないだとされるネズの枯れた木がある。木の前には「今川義元公馬繋ぎの杜松塚」の碑が建ち、横に二つの石碑。一方には「今川義元公」と刻まれ、裏に「昭和8年」とある。もう一つには「駿公墓碣」と掘られている。さらに、義元がのどを潤した「今川義元公水汲みの泉」も。初夏になると義元が蛍となり、京都に向かって飛ぶとの伝説がある。
 さらに進むと、瀬名陣所跡に出る。義元の家臣で先発隊を率いた瀬名伊予守氏俊が合戦の2日前、着陣した場所だ。氏俊はここで追分(大府市)、村木(東海市)、大高、鳴海方面を監視した。
 古伝によると、陣所跡は東西8間、南北20間くらいの「トチの木林」だった。地盤が高く、しばらくは陣所の形態をとどめていたが竹やぶになつてしまった。村人は瀬名氏俊をしのんで「セナやぶ」「センノやぶ」と呼んでいたが、大池の堤防工事によってセナやぶも取り壊された。今は、竹がわずかに名残をとどめるのみ。
 瀬名陣所跡から、1538(天文7)年の創建とされる長福寺に向かう。桶狭間の合戦に際し、住職が村人とともに酒とさかなで義元をもてなしたという。
 勝敗が決したあと捕らえられた義元の家臣、林阿弥は、境内で義元はじめ武将の首検証をして許されたが、のちに義元や家臣の菩提を弔うため、長福寺に阿弥陀如来像を納めた。本堂には今川義元、松井宗信の木造が安置され、境内に首検証の碑、供養塔などがある。
 長福寺門前の道路を隔てた反対側に、戦評の松がある。瀬名氏俊が大松の下に武将を集め、戦いの評議をしたという。
 松の下には、5月19日の命日に、白装束で白馬にまたがった義元の亡霊が現れるとの言い伝えがある。また江戸時代、刈谷の魚屋が義元の亡霊に出会い、他言無用と固く口止めされたが、他人に漏らした途端熱病にかかり死んでしまったとの伝説もある。
 戦評の松は「一本松」「大松」と呼ばれていたが、伊勢湾台風で枯れてしまい1962(昭和37)年に2代目が植樹された。この松も近年枯れてしまい、太い切株だけが名残をとどめている。

《みどころ》古戦場一帯には、織田軍が包囲した巻山、陣に幕を張った幕山、武者が通った武路狭間、戦死者を葬った七ツ塚、馬の鞍が浮かんでいた鞍流瀬川などの史跡がある。ほかに「神明社」「慈雲寺」「庚申堂」など。 

《メモ》名古屋市緑区役所地域振興課(電話052・621・2111)で緑区散策マップ「桶狭間古戦場コース」が入手できる。古戦場案内の申し込みは「桶狭間の戦いを学ぶ会」へ。

《まつり》桶狭間古戦場まつり(5月19日に近い日曜日)長福寺、戦評の松などで慰霊祭や万燈会などがある。桶狭間神明社大祭(10月の第2日曜)には南、北、中の三つの町から傘鉾、音頭台、神輿が出る。境内では神楽・太鼓の奉納や持ち投げも行われる。

《あし》名鉄有松駅下車。同駅か名古屋市営バス有松町口無池行で幕山か桶狭間寺前下車。栄えからなら名古屋市営バス・高速1号森の里団地行きで幕山か桶狭間寺前下車。

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