
地元では「桶狭間古戦場保存会」のほか、2004(平成16)年5月「桶狭間の戦いを学ぶ会」が設立され、メンバーがガイドを始めるなど観光客誘致の取り組みも活発化している。

名鉄有松駅で電車を降り、バスに乗ってもよかったが歩く。古い町並みの続く旧東海道を左へ折れ、有松・鳴海絞会館、有松山車会館を過ぎて有松郵便局を右に曲がる。
国道1号を渡って30分ほど歩くと、幕山バス停が見えてくる。バスの人はここで降りる。
近くに、1988(昭和63)年の土地区画整理事業で整備された「桶狭間古戦場跡」(田楽坪)がある。

合戦の中心地だった桶狭間古戦場跡も、古くから義元が戦死した地と伝えられる。

さらに進むと、瀬名陣所跡に出る。義元の家臣で先発隊を率いた瀬名伊予守氏俊が合戦の2日前、着陣した場所だ。氏俊はここで追分(大府市)、村木(東海市)、大高、鳴海方面を監視した。
古伝によると、陣所跡は東西8間、南北20間くらいの「トチの木林」だった。地盤が高く、しばらくは陣所の形態をとどめていたが竹やぶになつてしまった。村人は瀬名氏俊をしのんで「セナやぶ」「センノやぶ」と呼んでいたが、大池の堤防工事によってセナやぶも取り壊された。今は、竹がわずかに名残をとどめるのみ。
瀬名陣所跡から、1538(天文7)年の創建とされる長福寺に向かう。桶狭間の合戦に際し、住職が村人とともに酒とさかなで義元をもてなしたという。
勝敗が決したあと捕らえられた義元の家臣、林阿弥は、境内で義元はじめ武将の首検証をして許されたが、のちに義元や家臣の菩提を弔うため、長福寺に阿弥陀如来像を納めた。本堂には今川義元、松井宗信の木造が安置され、境内に首検証の碑、供養塔などがある。

松の下には、5月19日の命日に、白装束で白馬にまたがった義元の亡霊が現れるとの言い伝えがある。また江戸時代、刈谷の魚屋が義元の亡霊に出会い、他言無用と固く口止めされたが、他人に漏らした途端熱病にかかり死んでしまったとの伝説もある。
戦評の松は「一本松」「大松」と呼ばれていたが、伊勢湾台風で枯れてしまい1962(昭和37)年に2代目が植樹された。この松も近年枯れてしまい、太い切株だけが名残をとどめている。
《メモ》名古屋市緑区役所地域振興課(電話052・621・2111)で緑区散策マップ「桶狭間古戦場コース」が入手できる。古戦場案内の申し込みは「桶狭間の戦いを学ぶ会」へ。
《まつり》桶狭間古戦場まつり(5月19日に近い日曜日)長福寺、戦評の松などで慰霊祭や万燈会などがある。桶狭間神明社大祭(10月の第2日曜)には南、北、中の三つの町から傘鉾、音頭台、神輿が出る。境内では神楽・太鼓の奉納や持ち投げも行われる。
《あし》名鉄有松駅下車。同駅か名古屋市営バス有松町口無池行で幕山か桶狭間寺前下車。栄えからなら名古屋市営バス・高速1号森の里団地行きで幕山か桶狭間寺前下車。
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