縄文時代 | - | 桶狭間に石鏃散布 |
589 | 崇竣 2 | 東海・東山・北陸の国境決まる |
645 | 大化 元 | 尾張宿祢忠命愛知郡郡司となる |
604 | 大化 2 | 改新の詔により国郡制が布かれ初めて尾張国に愛知・知多のほか八郡定まる |
701 | 大宝 元 | 暴風雨の被害でる |
703 | 大宝 3 | 多治比真人水守が尾張守となり尾張の国司になる |
715 | 和銅 8 | 三河地震で被害でる |
988 | 永延 2 | 尾張国郡司や百姓が国司藤原元命の非道を訴え |
1118 | 文治 元 | この頃 有松の三丁山、生山、幕山、愛宕西・東、神明裏、清水谷、深谷池、清水山、上ノ山、嵐廻間に登窯が築かれ山茶碗などを焼く |
1185 | 文治 元 | 東海道の新道について『尾参宝鑑』に記載 源頼朝は守護職置くが守護千葉氏は鎌倉に在住し守護代として小野成綱に職務代行させる |
1341 | 興国 2 | この頃 戦いに敗れた南朝の人々が桶狭間で生活する |
1515 | 永正12 | 今川義元の版図が三河から尾張に広がる |
1538 | 天文 7 | 長福寺創建する |
1560 | 永禄 3 | 桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を破る |
1575 | 天正 3 | 織田信長東海道の幅3間半に広げ植樹する奉行坂井文助・河野藤蔵・山口太郎兵衛・篠原八右衛門 |
1582 | 天正10 | 織田信雄尾張の領主になる |
1586 | 天正14 | 豊臣秀吉東海道を整備する |
1589 | 天正17 | この頃 鎌倉街道が古街道と呼ばれるようになる |
1590 | 天正18 | 豊臣秀次が近江八幡から尾張の領主になる |
1596 | 文禄 4 | 福島正則が清洲に封ぜられ尾張24万石を領す |
1600 | 慶長 5 | 松平忠吉が清洲に入り52万石を領する |
1601 | 慶長 6 | 東海道五十三次の宿場できる |
1604 | 慶長 9 | 有松に一里塚築かれる |
1605 | 慶長10 | 慶長大地震で被害でる |
1607 | 慶長12 | 徳川義直尾張の領主になる 朝鮮使節「回答兼刷還使」派遣始まり江戸へ向かう使節東海道を通る(往路4月・復路5月) 徳川義直尾張の領主となる |
1608 | 慶長13 | 尾張藩「知多郡の内 桶狭間村新町の儀 諸役御免許候間 望之者有之においては 彼地へ可被者也仍如件」の布告で有松へ移住を奨励(2月) 竹田庄九郎・長五郎・九左衛門・九兵衛・勘次・弥七・新助・治作が尾張藩の推奨で有松に移住 伊奈備前守忠次によって「備前検地」行われ、桶狭間に残る検地帳『慶長拾三戊申十月五日尾州智多郡桶廻間村御縄打水帳』に石高213石9斗7升5合で田畑26町7反16歩郷倉検地 免税と記録 この頃、桶狭間の村役人、彦左衛門、伝右衛門、又右衛門 |
1609 | 慶長14 | オランダ人参府始まり東海道を通る |
1610 | 慶長15 | 名古屋城築城始まり「豊後絞り」の技法伝わる 竹田庄九郎武則絞りを始め九九利染め考案 二代目竹田庄九郎直治生まれる 尾州藩の紺屋頭小坂井新右衛門が統制をして藍瓶役となる |
1613 | 慶長18 | 茶壷道中東海道通る(制度化前) 寅新田に津島社観請される 大阪の陣で東海道を徳川方の軍勢が通る この頃 有松へ7名が移住する |
1615 | 元和 元 | この頃、元和元年から寛永2年にかけて阿久比村から有松に17戸が移住する |
1616 | 元和 2 | 禁止された煙草の栽培と売買が農作物不作の桶狭間に特別に許される |
1624 | 寛永 元 | 朝鮮使節「回答兼刷還使」東海道を通る(11月) 寛永年間(1624-1643)木綿絞り普及する |
1625 | 寛永 2 | 朝鮮使節「回答兼刷還使」江戸の帰途東海道を通る(1月) 徳川義直桶狭間古戦場を遊覧し長福寺に立ち寄る 有松が桶狭間から独立する、戸数29戸、田畑2町7反1畝14歩 尾張藩は更に有松の屋敷地8反1歩を無税地として移住進める 竹田庄九郎鍛(しころ)絞りを考案する この頃、有松に兵左衛門・五郎右衛門ら14名が移住 |
1632 | 寛永 9 | 宇治から将軍に茶を献上する茶壺道中が制度化され東海道を通行する(道中は江戸末期まで続くがほかの事案がない年には掲載を省略) |
1633 | 寛永10 | 茶壺道中東海道通る オランダ人参府毎年となり東海道通る |
1634 | 寛永11 | 三代将軍家光上洛のため東海道を通る 茶壺道中東海道通る |
1636 | 寛永13 | 朝鮮回答兼刷還使は文化使節「朝鮮通信使」となり東海道を江戸に向かう(11月) 茶壺道中東海道通る |
1637 | 寛永14 | 朝鮮使節「朝鮮通信使」江戸の帰途東海道通る(1月) 茶壺道中東海道通る |
1638 | 寛永15 | 尾張の物産として綿と藍玉が『毛吹草』に記載 茶壺道中東海道通る |
1641 | 寛永18 | 尾張藩嫡子徳川光友に初入国の祝いに鍛絞手綱献上する 茶壺道中東海道通る この頃 東海道を通行する人が増加する |
1642 | 寛永19 | 茶壺道中東海道通る |
1643 | 寛永20 | 朝鮮使節「朝鮮通信使」東海道を江戸へ向かう(往路6月・復路8月) 茶壺道中東海道通る |
1644 | 正保 元 | 茶壺道中東海道通る この頃 三浦玄忠の妻が三浦絞の起源となる豊後絞りの技法伝える 絞商・紺屋・絞括り職人など分業が成立する |
1653 | 承応 2 | 琉球使節87人を松平大隈守が同道し東海道通る 茶壺道中東海道通る |
1655 | 明暦 元 | 朝鮮通信使東海道通る(9月・11月) 茶壺道中東海道通る |
1658 | 万治 元 | 三浦玄忠の妻「貴窓永尊禅定尼」没する 尾張藩主が徳川綱吉将軍就任祝いに絹布の有松絞の手綱に「九 九利染」と名付け贈る 茶壺道中東海道通る |
1660 | 万治 3 | 絞「紅染絞り」「紫染絞り」考案され需要増える 茶壺道中東海道通る 万治年間(1658-1650)紅染絞と紫染絞考案 この頃 浅井了意編で東海道筋の名所・寺社を紹介した『東海道名所記』刊行 |
1661 | 寛文 元 | 茶壺道中東海道通る この頃、桶狭間神明社の祭り始まる 寛文年間(1661-1672)長福寺火災で宝物焼失 有松 田1反2畝歩・畑2町5反8畝歩・家数31軒 |
1662 | 寛文 2 | 琵琶湖西岸地震で家屋・人畜に被害(5月) 竹田庄九郎武則没する 茶壺道中東海道通る |
1671 | 寛文11 | 尾張藩により『寛文村々覚書』の編纂進む 琉球使節85人東海道通る 茶壺道中東海道通る 桶狭間村家数18戸・人数193人・田畑23町9反7畝9歩の内畑3町8反弱 有松村は家数31戸・人数151人・田畑2町7反24歩 |
1677 | 延宝 5 | 布袋車山車を名古屋の玉屋町が若宮八幡宮祭車として造る 茶壺道中東海道通る |
1680 | 延宝 8 | 茶壺道中東海道通る この頃 大名絞と杢目絞及び蜘蛛段絞などの発明で急速に絞りが進歩する |
1681 | 天和 元 | 尾張藩主が将軍綱吉へ「九九利絞」の手綱献上する 茶壺道中東海道通る |
1682 | 天和 2 | 琉球使節94人東海道通る(8月・9月) 朝鮮通信使正使尹趾完副使李彦綱従事官朴慶俊ら362人東海道通る(8月・9月) 茶壺道中東海道通る |
1683 | 天和 3 | 『東海道中尽』刊行する 茶壺道中東海道通る |
1688 | 元禄 元 | 茶壺道中上りは東海道下りは中仙道通行となる 元禄年間(1688~1703)尾張四代藩主吉通が桶狭間神明社に参詣記念のスギ植える |
1689 | 元禄 2 | 尾張藩主有松絞業者居住地の租税を免除 絞り最盛期迎える 茶壺道中東海道通る |
1690 | 元禄 3 | 茶壺道中再び上り下り共東海道通行となる 菱川師宣画、遠近道印作で、街道沿いの一里塚、次宿までの距離、駄賃などを記した『東海道網目分間之図』作られる 茶壺道中東海道通る |
1691 | 元禄 4 | ケンペル『江戸参府紀行』『日本誌』の著者オランダ商館長の江戸参府に従い東海道通る 茶壺道中東海道通る |
1697 | 元禄10 | 二代目竹田庄九郎88歳で没する 茶壺道中東海道通る |
1701 | 元禄14 | 鳴海と有松の記載された尾州藩控図『尾張国絵図』作られる 長福寺中興開山善空南立上人没する 茶壺道中東海道通る |
1711 | 正徳 元 | 朝鮮通信使の正使趙泰億が東海道通る 茶壺道中東海道通る |
1714 | 正徳 4 | 琉球王使東海道通る 茶壺道中東海道通る |
1716 | 享保 元 | 尾張藩主継友知多郡を巡見する 茶壺道中東海道通る この頃、長福寺の惣門下郷弥兵衛の寄進で建つ |
1718 | 享保 3 | 琉球王使東海道通る 茶壺道中東海道通る |
1719 | 享保 4 | 朝鮮通信東海道を通行し警護のため橘田与左衛門が指揮する足軽23人が鉄炮10挺弓10張長柄10本火消道具で待機する(往路9月) 朝鮮通信使東海道通る(復路10月) 茶壺道中東海道通る |
1726 | 享保11 | 桶狭間午新田検地(高45石7斗3升8合) 茶壷道中東海道通る |
1729 | 享保14 | 長崎から江戸へ向かう将軍吉宗の注文した象が東海道通る 茶壺道中東海道通る この頃 有松村に絞染改会所でき、藩使が出張し絞染の尺巾を改め官印を押して冥加金を徴収 |
1743 | 寛保 3 | 有松村の田畑5町2反6畝24歩 茶壺道中東海道通る |
1745 | 延享 2 | 絞りについて『尾陽寛文記』に「有松村を通る絞りする家2軒から3軒」の記載 茶壺道中東海道通る |
1748 | 寛延 元 | 徳川家重将軍就任祝いの朝鮮信使東海道を通る(往路5月) 将軍就任祝い具志川皇子以下90人の琉球王使東海道通る 茶壺道中東海道通る |
1750 | 寛延 3 | 桶狭間の人口315人、戸数67戸 茶壺道中東海道通る |
1751 | 宝暦 元 | 桶狭間未新田検地(高17石5斗8升1合) 茶壺道中東海道通る 宝暦年間(1751-1763)有松で笹屋絞卸商始める 長福寺本堂改築 |
1752 | 宝暦 2 | 松平君山撰千村伯済校で『張州府志』発行 江府万屋清兵衛『東海道分間絵図』刊行 琉球王使東海道通る 茶壺道中東海道通る |
1753 | 宝暦 3 | 桶狭間神明社増築 茶壺道中東海道通る |
1755 | 宝暦 5 | 猿堂寺を祇園寺と改め呑舟透鱗が根古屋から有松に移し創建される(創建は苔巌が庵を建て疱瘡の呪いをしていた跡) 江戸萬屋清兵衛版『東海道分間図』に鳴海から有松への町並み描く 桶狭間亥新田検地(高9斗5升5合) 茶壺道中東海道通る |
1764 | 明和 元 | 朝鮮通信使東海道通る(往路2月・復路3月) 琉球王使東海道通る 茶壺道中東海道通る |
1768 | 明和 5 | 布袋車山車のからくりを文字書きのからくり人形にする 茶壺道中東海道通る |
1772 | 安永 元 | 鳴海村付近の絞商14名が「発明の元祖」鳴海以外の村での製造禁止を代官に訴える 茶壺道中東海道通る この頃、有松村に絞染支配所設置取締り行う |
1781 | 天明 元 | 絞染職分取締につき触書でる(12月) 有松について『知多郡有松村家並改帳』に惣棟239棟全て萱葺で唯一の瓦葺は祇園寺と記載 茶壺道中東海道通る この頃、高力猿候庵『東街便覧図略』に有松志ぼり店を紹介 |
1782 | 天明 2 | 鳴海村森下三十番地に鳴海陣屋設置される支配地は鳴海から大府・桶狭間・有松・半田・師崎・河和等69ヵ村で代官飯沼定右衛門250石(一般代官は30石) 有松の絞業者が営業独占権獲得 染絞職分取り締まりについての触書がでる 茶壺道中東海道通る |
1783 | 天明 3 | 信州浅間山噴火し尾張・三河ゆれる「猿猴庵日記」に掲載される(7月) 茶壺道中東海道通る |
1784 | 天明 4 | 大雨洪水で東海道も鳴海から知立付近まで海となる(8月) 有松村で大火災起こり全村焼失 茶壺道中東海道通る |
1786 | 天明 6 | 祇園寺秋葉堂建てる 茶壺道中東海道通る この頃、高力猿猴庵編・画で熱田から江戸まで記録の『東街便覧図略』刊行 |
1787 | 天明 7 | 樋口好古撰牧民忠告解『尾張國司農府之藏』藤屋吉兵衛出版 茶壺道中東海道通る |
1788 | 天明 8 | 内藤東甫著『張州雑志』発行 茶壺道中東海道通る |
1789 | 寛政 元 | 茶壺道中東海道通る 寛政年間(1789-1800)長福寺西国三十三観音建立 |
1790 | 寛政 2 | 井桁屋木綿絹布絞業始める 琉球王使東海道通る 茶壺道中東海道通る オランダ人参府東海道通る4年に1回となる |
1791 | 寛政 3 | 木綿統制令発布 茶壺道中東海道通る |
1792 | 寛政 4 | 樋口好古『尾張徇行記』発行 茶壺道中東海道通る |
1796 | 寛政 8 | 琉球王使東海道通る 茶壺道中東海道通る |
1798 | 寛政10 | 天満社が祇園寺境内から文章嶺に遷座 茶壺道中東海道通る |
1799 | 寛政11 | 有松の常夜燈建つ 有松に遊んだ本国司農、神野世献、文微甫が有松の盛況を『纐纈記』に書く 茶壺道中東海道通る |
1800 | 寛政12 | 有松村の町並み完全に復興する 茶壺道中東海道通る この頃 歌麿『絞りゆかた美人湯上りの図』描く |
1801 | 享和 元 | 天満社本殿前に常夜灯建つ 茶壺道中東海道通る |
1802 | 享和 2 | 尾張地震起こり被害でる(11月) 十返舎一九の『東海道中膝栗毛』発行 茶壺道中東海道通る |
1803 | 享和 3 | 葛飾北斎が『東海道五十三次』描く 茶壺道中東海道通る |
1804 | 文化 元 | 有松絞りの統制強化 茶壺道中東海道通る この頃 重信『有松絞り括りの図』描く 文化年間(1804-1817)絞会所を設置し有松21軒の株仲間で絞染業の独占支配する |
1806 | 文化 3 | 随筆集『鳴呼矣草』田中仲宣に絞描く 街道図『五海道其外分間見取延絵図』作られる 茶壺道中東海道通る |
1807 | 文化 4 | 有松・鳴海を紹介の須原屋版『東海木曽両道中懐宝図鑑』発行 茶壺道中東海道通る |
1808 | 文化 5 | 林海州美濃国大野郡伊尾村に生まれる(2月) 伊能忠敬ら四国と大和路測量の途中東海道通る(2月) 茶壺道中東海道通る |
1810 | 文化 7 | 文章嶺天満社に八棟造り神廟建つ 茶壺道中東海道通る 茶道利倉盛庸が日記『宇治茶御用道中図景』書く |
1811 | 文化 8 | 有松絞り統制違反紛争起き尾張藩が阿波国松平家を告訴 絞の村中職分取締りで絞販売は専有権を持つ有松以外では行わないように触書でる 朝鮮通信使東海道通行の最後 茶壺道中東海道通る |
1812 | 文化 9 | 竹田庄九郎藩主入国を祝い紺と紫のチリメン地1尺2寸の養老絞手綱を献上(12月) 茶壺道中東海道通る |
1813 | 文化10 | 碓氷重治鳴海陣屋代官となる(碓氷君徳政碑誓願寺に建つ) 茶壺道中東海道通る |
1816 | 文化13 | 桶狭間古戦場碑建つ 津田正生著『尾張国地名考』発行 茶壺道中東海道通る |
1818 | 文政 元 | 茶壺道中通行する 文政年間(1818-1829)長福寺薬師堂建つ |
1819 | 文政 2 | 琵琶湖東岸地震で土蔵などに被害 茶壺道中東海道通る |
1821 | 文政 4 | 茶壺道中東海道通る |
1822 | 文政 5 | 樋口好古が寛政4年~30年で『郡村徇行記』完成(5月) 須原屋茂兵衛から旅行ガイドプック『懐宝道中図鑑』刊行「有松もめんなるみしぼり名物也」と紹介 茶壺道中東海道通る |
1823 | 文政 6 | 絞販売は専有権を持つ有松以外では不可の触書でる 茶壺道中東海道通る |
1824 | 文政 7 | 天満社改築八棟造りの社殿完成(文章嶺天満宮神廟) 徳川吉通が参拝記念に植えた桶狭間神明社の杉が暴風で倒れ神木として保存 ペルシヤからのラクダ東海道通る 茶壺道中東海道通行る |
1826 | 文政 9 | シーボルトオランダ人参府の正使に随行し東海道通る 須原屋茂兵衛『懐宝道中図鑑』再刊行 茶壺道中東海道通る |
1827 | 文政10 | 茶壺道中東海道通る |
1828 | 文政11 | 祇園寺に仏足跡と豪潮筆による仏足跡歌碑建つ 茶壺道中東海道通る |
1830 | 天保 元 | 有松で東竹屋絞製造請負業始める 茶壺道中東海道通る この頃 桶狭間で梶野清左衛門寺子屋開く 天保年間(1830-1844)唐子車山車を内海の豪商造らせる |
1831 | 天保 2 | 茶壺道中東海道通る |
1832 | 天保 3 | 薩州家臣宰領し琉球王使東海道通る 初代広重東海道五十三次『鳴海』(保永堂版)描く 茶壺道中東海道通る |
1833 | 天保 4 | 美濃地震でゆれる(4月) 有松祭り警固衣装の羽織と半纏を30両で新調する 茶壺道中東海道通る 桶狭間に追剥が出るが風呂敷包み取り返し被害無し この頃 桶狭間神明社の祭りに傘鉾などのほか神馬・奉納馬(馬之頭)がでる |
1834 | 天保 5 | 絞の販売は店での商いに止める事など規約を定めた「絞染職取締定箇条書」でる(6月) 絞染職株定之事「絞染職株定書」有松絞株仲間組織強化され絞製品統制の手段として生地に改印「尾州有松絞り支配所」の朱印押す(7月) 鳴海代官支配は愛知郡と知多郡の東及び三河国加茂郡寺部村周辺の102カ村 茶壺道中東海道通る |
1835 | 天保 6 | 天満社祭りについて『村方祭礼取締方之儀』に「祭禮之儀者何事茂諸事中老衆之指図ニ任セ取持可致候事」と記載 茶壺道中東海道通る |
1837 | 天保 8 | 鈴木金蔵小字金太郎生まれる(7月) 茶壺道中東海道通る この頃 国芳『東海道五拾三駅五宿名所図』描く |
1838 | 天保 9 | 尾張藩『尾張国絵図』(重要文化財)作成する 茶壺道中東海道通る |
1841 | 天保12 | 絵図『知多郡込高新田絵図』『桶廻間図面』『知多郡有松村絵図』作られる 祇園寺の三十三観音堂が建つ 岡田啓・野口道直撰小田切春江画『尾張名所図会』完成 茶壺道中東海道通る この頃 有松村は絞商19軒の他、茶屋19軒、雑貨屋20軒が街道に並ぶ |
1842 | 天保13 | 琉球王使東海道通る 茶壺道中東海道通る この頃 天保改革の倹約令で有松絞り衰微する |
1843 | 天保14 | 紀伊大納言江戸参府で東海道通る 長崎奉行与力囚人を江戸町奉行所に連行するため東海道通る 茶壺道中東海道通る この頃 初代広重『名物有松絞り店の図』刊行 筋違橋北東に家並み描かれた「知多郡有松村絵図」作られる |
1844 | 弘化 元 | 小田切春江画『尾張名所図会』刊行 茶壺道中東海道通る この頃 行書東海道『鳴海』初代広重刊行 |
1845 | 弘化 2 | 祇園寺金比羅堂建つ(3月) 絞の販売は店での商いに止める事など規約を定めた「絞染職取 締定箇条書」でる(5月) 茶壺道中東海道通る |
1846 | 弘化 3 | 桶狭間の地図完成する 藩命で深田香実撰『尾張志』完成する 茶壺道中東海道通る |
1847 | 弘化 4 | 茶壺道中東海道通る この頃 三代豊国『東海道五十三対絞り括くりの図』描く |
1848 | 嘉永 元 | 茶壺道中東海道通る |
1849 | 嘉永 2 | 祇園寺に寺子屋開設(明治15年廃止) 長福寺に遠州二俣城主松井宗信の木像寄進 茶壺道中東海道通る |
1850 | 嘉永 3 | 琉球王使東海道通る(正使豊見城王子) 茶壺道中東海道通る この頃 広重『有松里名物絞店』刊行 模様集『洗張浮世模様』岩瀬京伝に当時流行した花染絞など紹介 |
1851 | 嘉永 4 | 茶壺道中控『公儀御茶壺一巻留』に茶壺御附添衆進物に奈留美絞と記載 加島英国著『東日記』に鳴海・有松の名物「絞り染め」紹介 茶壺道中東海道通る |
1852 | 嘉永 5 | 広重『旅人の名産有松絞り括くりを見る図』刊行 茶壺道中東海道通る |
1853 | 嘉永 6 | 絞の販売は店での商いに止める事など規約を定めた「絞染職取締定箇条書」でる(12月) 鈴木金蔵14歳で養老影絞りを発明 茶壺道中東海道通る |
1854 | 安政 元 | 伊賀盆地地震でゆれる(6月) 東海道沖遠州灘地震と翌日南海道沖地震で被害でる(11月) 茶壺道中東海道通る |
1855 | 安政 2 | 桶狭間の医師宅で療養していた定次郎が鳴海宿で暴れ脇差で4人を死なせる 茶壺道中東海道を通る この頃 五十三次名所図絵『鳴海』初代歌川広重刊行 広重『名産有松志ぼり店の図』刊行 |
1856 | 安政 3 | 尾張藩は軍費として14ヵ村に27.600両の提出を命じる 有松村の絞取締一統から鳴海代官所に絞販売は専有権を持つ有松以外で行わないよう取締の願書でる 茶壺道中東海道通る |
1857 | 安政 4 | 豪雨で鳴海村代官支配地区で29か所が水難に遭う(7月) 茶壺道中東海道を通る |
1859 | 安政 6 | 八人の紺屋惣代連名で絞の値引きをしないよう会所に申し入れ 鳴海陣屋の代官山田貫一郎努める 茶壺道中東海道通る |
1860 | 万延 元 | 鳴海陣屋が清水寺丹下砦跡に移り知多半島迄の106ヵ村を支配する 台風で桶狭間神明社の徳川吉通手植えのスギ枯れる 茶壺道中東海道通る |
1861 | 文久 元 | 皇女和宮の婚礼道具東海道通る(10月) 尾張藩の御産物絞となり絞製品統制の改印が「尾州有松絞御用会所」の朱印に改める 有松村の二人が京・大阪方面に出奔、絞を教えていたため連れ戻す 茶壺道中東海道通る 文久年間(1861-1863)桶狭間に御嶽講社発足梶野覚清が先達となり御嶽山に登山する |
1862 | 文久 2 | 有松家並み『御上洛御用ニ付御改書上記録』書かれる往還並家113軒(商家43軒、農家70軒)惣家190軒 茶壺道中東海道通る |
1863 | 文久 3 | 将軍徳川家茂上洛の途中竹田庄九郎宅で休息する 徳川慶勝が上洛の将軍家茂を出迎え 鈴木金蔵精米機発明 一橋斎艶長『東海道名所内・桶狭間』錦絵刊行 二代広重画で『十四代将軍家茂上洛有松通行の図』刊行 茶壺道中東海道通る この頃 有松村御産物絞取締役から鳴海陣屋に絞染紺屋取締の願書出される |
1865 | 慶応 元 | 14代将軍家茂長州征伐に際し有松家並調査『御進発之節御成方々御泊可相成家並調査図面』作られる 長州征伐の途中に将軍家茂が竹田家で休息 茶壺道中東海道通る |
1866 | 慶応 2 | 長福寺に寺子屋開かれる 尾張藩が名古屋商人の絞製造を認め絞り独占体制が崩壊 国周『末広五十三次絞り括くりの図』発行 茶壺道中東海道通る |
1867 | 慶応 3 | 英国外交官のアーネスト・サトウ鳴海と有松を通り絞りを購入 有松の絞り技術を服部興右衛門が木綿商人を装って習得し名古屋へ持ち出す |
2007年10月22日月曜日
有松・桶狭間の歴史年表(~江戸)
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