2007年10月22日月曜日

有松の絞と町並みを訪ねて

 優美な中にも渋い味わいと精緻な技法で知られる「国の伝統的工芸品産業」に指定された絞りは長い歴史を持ち、静かな町並みの中に今も脈々と生き続けている。のれんが風に揺れる絞りの店、店の格子戸が開き、編笠に袴の武士が、島田姿の美人が……。振り返ると、街道には荷を振り分けにした旅人……。そんな江戸時代の装いの人に出会っても違和感を覚えないだろう。洋服姿の方がよそよそしく感じられ、とても名古屋市の一角とは思えない風景が広がる有松の町並み。

 「有松・鳴海絞」のふるさと有松は名古屋の中心から東南に向かって車で1時間足らず。電車なら新名古屋駅から名鉄急行の鳴海駅で普通に乗りかえて約40分。駅を南へ歩くとすぐ交差するのが、京と江戸(東京)を結ぶ旧東海道。旅人のため五十三次の宿場が設けられていた。名古屋から江戸へは鳴海宿の次ぎが地鯉鮒(知立)宿。宿と宿の間は人家もなく、細い街道が松林の中を蛇行しながら伸びている寂しい土地。古くは昼間からタヌキやキツネのほか、強盗、追いはぎが出没し、旅人を困らせたといわれている。
 尾張藩は旅人の安全と休息場所の必要から、新しい合宿(宿泊設備を持たない道中の足を休める場所)有松を造った。有松という名は付近に松が多かったところから付いたとする説と、「新町」が有松に転じたとする説がある。

 今から400年前の1608(慶長13)年、免租地の特権とともに夫役を免ずる条件で、近くの村々に有松への移住を呼びかけた。最初に移住したのは、庄九郎、長五郎、九左衛門、九兵衛、勘次、弥七、親助、治郎作の8人と家族。知多郡英比庄(阿久比)の人たちで、土地が狭いうえ米つくりなどできない荒地で生活は苦しかった。庄九郎らが副業として始めた絞り染めが旅人にもてはやされ、徳川五代将軍綱吉の将軍就任を祝い、絞りの馬の手綱を献上したころからその名が全国に広まり、絞りの町として発展してきた。

 浮世絵師・安藤広重らが描く版画に数多く登場する町並みは有染橋から東町、中町、西町を経て祇園寺まで約800メートル続く。建物は江戸時代に造られたものも多く、歴史的価値は高い。1984(昭和59)年には名古屋市で最初の「名古屋市町並み保存地区」に指定された。

 町を歩くとしっとりとしたたたずまいの中に、美しい連子格子が幾何学模様を描く。広々とした家々は絞り問屋として特別な造り。1784(天明4)年の大火で全村が消失。「田舎に京の有松」とうたわれた、美しい町並みも一時、絶滅の危機にひんしたが、苦い経験を生かし、屋根は瓦で端を高く隣家の火を防ぐ卯建がある。柱は壁で囲う塗籠造、虫篭窓とするなど防火対策を随所に施し、寛政年間(1789~1801)には完全に復興している。尾張藩の援助もあったが、絞りの富の力が大きかった。

 町並みの東に背の高い「有松山車会館」がある。1988(昭和63)年に文化財の山車を常設展示するために建てられた。館内には有松の3台の山車のうち1台が交互に展示され、豪華な水引や幕で飾り、祭り囃子の音が流れる中で解説を聞きながらゆっくり見学できる。

 有松小学校跡には「有松・鳴海絞会館」が建ち、絞りの歴史などが展示されている。研修室では絞りの講習会も開かれる。2階展示室入り口でお年寄りが「三浦絞」「巻上絞」など絞りの実演をし、手際よい作業を訪れた人が感心しながら見入り熱心に質問している。近くには「竹田庄九郎翁徳併有松絞由来書碑」がどっしり建つ。碑の前にある高札には「庄九郎絞りを創めたという。その後、豊後の医師三浦玄忠夫人が指導、三浦絞りが創出されてから一大進歩した」とあった。

 町並みを進むと愛知県文化財に指定された服部孫兵衛(井桁屋)、卯建のある主屋のほか、店舗、藍蔵、みそ蔵、門、長屋などを残す近世町屋建築の代表的な建物。中でも白壁の土蔵と都市景観保存樹に指定されたクロガネモチがひときわ浮き立つ。
 街道を一筋中の通りへ入ると、染めた絞りを屋上に干す人、下絵刷りをする職人、糸くくりに忙しい女性、訪問着を縫うお年寄りなどが目に入る。絞りは大きく分けて七つの工程がある。図案選び、型紙取り、下絵刷り、加工、染色、糸抜き、仕上げ、これらの仕事はすべて分業で、一反の絞りに多くの人が携わる。技法は縫い絞り、筋絞り、蜘蛛絞り、三浦絞り、鹿の子絞り、嵐絞りなど百種類ほどに分かれる。今も絞られているのはそのうち約30種類で、すでに忘れられてしまつた絞りも多い。一反に絞る粒数は5万から20万。それだけに絞り加工と染色後の糸抜き作業は大変で、3日から4日を要するものもある。

 町並みのほぼ中央に名古屋市指定文化財の竹田嘉兵衛商店。主屋、店舗、蔵などすべて黒く塗られて風格が感じられる。2階は壁、窓とともに漆喰仕上げの塗籠。玄関は格子戸の内側に大戸。これをくぐって中に入ると広々とした土間。長い廊下を通ると、大名らとの商談に使われた25畳の座敷。床の間と10畳の控えの間付きだ。大名は専用口からこの座敷に通った。庭は手入れが行き届き、配置された灯籠や石に、深い木々の緑が美しく調和する姿は閑雅の趣がある。座敷や蔵では静かな日本庭園を眺めながらのコンサートも開かれ、好評だ。庭の一角には東隣の開祖庄九郎屋敷跡から移した庄九郎宅跡の石碑。奥には茶室「裁松庵」。

 有松は早くから歴史的町並み保存に力を入れ、1973(昭和48)年には町の有志が「有松まちづくりの会」を結成した。会では、愛知県で初めての国の『重要伝統的建造物群』保存地区に選定を受ける取り組みを進めており、街道沿いの電柱をなくして石畳にし、江戸時代の有松の街並みを再現するのが夢。

 市指定文化財の絞り問屋の岡家住宅、小塚家住宅が並ぶ町並みを見ながら歩くと右手に1755(宝暦5)年に鳴海から移った祇園寺。有松絞り発展に尽くした竹田庄九郎、鈴木金蔵らをまつる。境内には1828(文政11)年に建てられた吉祥文のない珍しい仏足石と仏足石歌碑がある。寺の前には3メートルほどの松。江戸時代名残の松が枯れたため、「二代目の松」として植えられた。松の前を折れ、踏み切りを渡ると、文章嶺と呼ぶ小高い山。1798(寛政10)年に祇園寺境内から遷座された天満社。1810(文化7)年には絞商らの多額の寄進で八棟造の社殿が完成した。天満社の祭りでは3台の山車、東町の「布袋車」、中町の「唐子車」、西町の「神功皇后車」が、そろいの絞半纏を着た男衆らによって曳かれ祭りを盛り上げる。

《みどころ》「服部家住宅」(県指定文化財)。「竹田家住宅」「小塚家住宅」「岡家住宅」(市指定文化財)の文化財。「有松山車会館」「有松・鳴海絞会館」など。
《あし》新名古屋から名古屋鉄道名古屋本線「有松」下車。
《まつり》「有松祭り」(天満社祭礼)10月の第1日曜日で「布袋車」「唐子車」「神功皇后車」の3輌の山車が曳き回される。「絞りまつり」6月の第1土・日曜日にも山車が展示され、絞りをメインテーマにした催しが開かれる。

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